「そんなに困っているの……。」と云う。
「拾円位ならいつでも借してあげるよ。」
 暗いガラス戸をかすめて雪がちらしのように通って行く。
 私の両手を、男は自分の大きい両手でパンのようにはさむと、アイマイな言葉で「ね!」と云った。私はたまらなく憎しみを感じると、涙を振りほどきながら、男に云った。
「私は淫売婦じゃないんですよ。食えないから、お金だけが借してほしかったのです。」
 隣室で、妻君のクスクス笑う声が聞こえる。
「誰です笑っているのは! 笑らいたければ私の前で笑って下さい! 蔭でなぞ笑うのは止して下さい!」
 男の出て行った後、私は二階から果物籠を地球のようにほうり投げてやった。
[#改ページ]

   女アパッシュ

 二月×日
 あゝ何もかも犬に食われてしまえ!
 寝転ろんで鏡を見ていると、歪んだ顔が少女《むすめ》のように見えて、体中が妙に熱《ねつ》っぽくなって来る。
 こんなに髪をくしゃくしゃにして、ガランスのかった古い花模様の蒲団の中から乗り出していると、私の胸が夏の海のように泡立って来る。汗っぽい顔を、畳にべったり押しつけてみたり、むき出しの足を鏡に写して見たり、私は打ちつけるような激しい情熱を感じると、蒲団を蹴って窓を開けた。

[#ここから2字下げ]
――思いまわせばみな切な、貧しきもの、世に疎きもの、哀れなるもの、ひもじきもの、乏しく、寒く、物足らぬ、果敢なく、味気なく、よりどころなく、頼みなきもの、捉えがたくあらわしがたく、口にしがたく、忘れ易く、常なく、かよわなるもの、詮ずれば仏ならねど此世は寂し。
[#ここで字下げ終わり]

 チョコレート色のアトリエの煙を見ていると、白秋のこんな詩をふっと口ずさみたくなってくる、真《まこと》に頼みがいなき人の世かな。
 三階の窓から見降ろしていると、モデル女の裸がカーテンの隙間から見える。青ペンキのはげた校舎裏の土俵の日溜《ひだま》りでは、ルパシカの紐の長い画学生達が、之は又|野方図《のほうず》もなく長閑なすもう[#「すもう」に傍点]の遊び。
 上から口笛をプイプイ吹いてやると、カッパ頭が皆三階を見上げる。さあその土俵の上に此三階の女は飛び降りて行きますよッて吐鳴ったら、皆喜こんで拍手してくれるだろう――。
 川端画塾横の石屋のアパートに越して来てもう十日あまり、寒空に毎日チョコレート色のストオヴの
前へ 次へ
全114ページ中108ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
林 芙美子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング