た。
「あいば[#「あいば」に傍点]見ると、食べられんのう……。」
雲の上にぶらさがってあの牛は、二三日の内に屠殺されて、紫の印を押される事を考えているのか知ら……それとも故郷の事を、友達の事を……。
視野を下に降ろすと、古綿のような牛の群が、甲板の檻の中で唸っている。
鰯雲が、かたくりのように筋を引くと、牛の群も去り起重機も腕を降ろして夕べの月仄かな海の上に、もう二ツ三ツおしょうろ[#「おしょうろ」に傍点]船が流れていた。
火を燃やしながら、美し紙船が、涯木を離れて沖へ出た。
港には古風な伝馬が密集している。火の紙船が、月の様に流れ行く。
「牛を食ったり、おしょうろ[#「おしょうろ」に傍点]を流したり、人間も矛盾が多いんですねお母さん。」
「そら人間だもん……。」
古里はいゝナ――
[#改ページ]
寝床のない女
二月×日
黄水仙の花には、何か思い出がある。
窓をあけると、隣の家の座敷に灯がついて、黒い卓子《テーブル》の上に黄水仙が猫のように見えた。
階下の台所から、夕方の美味《うま》そうな匂いと音がする。
二日も飯を食えないジンジンする体を、三畳の部屋に横たえている事は、まるで古風なラッパのように埃っぽく悲しくなる。生※[#「さんずい+垂」、235−7]が煙になって、みんな胃のふ[#「胃のふ」に傍点]へ逆もどりだ。
ところで呆然《ぼんやり》としたこんな時の空想は、まず第一に、ゴヤの描いたマヤ夫人の乳色の胸の肉、頬の肉、肩の肉、酢っぱいような、美麗なものへ、豪華なものへの反感! が、ぐんぐん血の塊のように押し上げて、私の胃のふ[#「胃のふ」に傍点]は、旅愁にくれてしまった。
外へ出る。
町には魚の匂いが流れている。
公園に出ると、夕方の凍った池の上を、子供達がスケート遊びをしていた。
固い飯だって関いはしないのに、荒れてザラザラした唇には、公園の風は痛すぎる。子供のスケート遊びを見ていると、妙に切ぱ詰った思いになって、涙が出る。どっかへ石をぶっつけてやりたいな。
耳も鼻も頬も桃のように紅くした子供の群が、束子《たわし》でこするように、キュウキュウ厭な音をたてゝ、氷の上をすべっている。
一縷の望みを抱いて百瀬[#「百瀬」に傍点]さんの家へ行く。
留守。
知った家へ来て、寒い風に当る事は、余計腹がへって苦しい。留守居
前へ
次へ
全114ページ中102ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
林 芙美子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング