いと思いました。」
 沈黙っている二人の耳に、ワアンワアン喚声が聞える。
「今晩町の芝居小屋で、職工達の演説があるから、一寸のぞいてみなくては……。」男は、自分の腕時計を床の上に投げると、そゝくさと町へ出てしまった。
 私は、ぼんやりと部屋で、しゃっくり[#「しゃっくり」に傍点]を続けながら、高価な金色の腕時計を、そっと腕にはめてみた。涙がダボダボあふれた。
 東京で苦労した事や、裸で門を壊していた昼間の職工達の事が、グルグルして、時計の白い腹を見ていると目が廻りそうだった。

 六月×日
 宿の娘と連れだって、浜を歩く、今日で一週間になる。
「くよくよおしんな。」私は何もかもメンドくさくなって、呆然としていると、宿の娘は心配してくれる。
 何も考えてやしない。何も考えようがない。
 昨日は東京のお母さんへ電報ガワセを送ったし、私はこうして海の息を吸っているし、男がハラハラしようとしまいと、それはお勝手。私から何もかもむさぼり取った男なんだから、此位のコワガラセが何だろう。――尾道の海辺で、波止場の石垣に、お腹を打ちつけては、あの男の子供を産む事をおそれたが、今日はいじらしいお伽話だ。

 昨日の電報ガワセで、義父や母が一息ついてくれゝばいゝ、キラキラした浜辺を、洗い髪をなびかせながら歩いていると、町で下駄屋をしている男の兄さんが、オーイオーイと後から呼びかけて来た。
 久し振りに見る兄さん、尾道の家に、木になった蜜柑や、オレンジを持って来てくれたあの姿そのまゝで、笑いかけている。
「何も言わんもんじゃけん、苦労させやんした。」

 海が青く光っている。
 娘をかえして、二人で町はずれの男の親の家へ行く。
 海近くまで、田が青々して蜜柑山がうっそうと風に鳴っていた。
「あいつが気が弱いもんじゃけん。」
 海にやけた佗し気な顔して兄さんは口をつぐむ。

 家では七十になる老婆が、コトコト米をついていた。牛が一匹優さしい瞳をして私を見た。私は、どうしてもはいりたくなかった。
 何だか、こんなところへ来た事さえも淋しくなった、白い路のつづいている浜路を、私はあとしざりするように、宿へ急いだ。

 六月×日
 颯爽として朝風をあびて、私は島へハンカチを振った。
 どこへ行っても、どうにも仕様のない事だらけなんだ、東京へ帰えろう、私の財布は五六枚の拾円札でふくらんでいた。
 
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