……。まだ気のきいた春の唄がある。
 いっそ、銀座あたりの美しい街で、こなごなに血へどを吐いて、××さんの自動車にでもしかれてやろうか。
 いとしいお母さん、今貴女は戸塚、藤沢あたり、三等車の隅っこで何を考えています、どの辺を通っています……。

 卅五円が続くといゝな。
 お濠には、帝劇の灯がキラキラしている。私は汽車の走って行く線路を空想した。何もかも何もかもじっとしている。天下タイヘイで御座候か――。
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   旅の古里

 六月×日
 海が見える。
 海が見える。
 五年振りに見る、旅の古里の海! 汽車が尾道の海へさしかゝると、煤けた小さい町の屋根が、提灯のように拡がって来る。
 赤い千光寺の塔が見える、山は若葉だ、海のむせた[#「むせた」に傍点]緑色の向うに、ドック[#「ドック」に傍点]の赤い船が、キリキリした帆柱を空に突きさしている。
 私は涙があふれた。

 借金だらけの私達親子三人が、東京行きの夜汽車に乗った時、町はずれに大きい火事があったが……。
「ねえ、お母さん! 私達の東京行きに、火が燃えるのは、きっといゝ事がありますよ。」しょぼしょぼ隠れるようにしている親達を私は、こう言って慰めたが、東京でむかえに来てくれる者は、学校へ行っている、私の男一人であった。
 だが、あれから、あしかけ六年、私はうらぶれた体で、再び旅の古里である尾道へ逆もどりしている。その男も、学校を出ると、私達を置きざりにして、尾道の向うの因の島へ帰えってしまった。
 気の弱い両親をかゝえた私は、当もなく昨日まで、あの雑音のはげしい東京を放浪していたが、あゝ今は旅の古里の海辺だ。海添いの遊女屋の行灯が、つばき[#「つばき」に傍点]のように白く点々と見える。
 見覚えのある屋根、見覚えのある倉庫、かつて自分の住居であった、海辺の朽ちた昔の家が、じっと息している。
 何もかも懐しい姿だ。少女の頃に吸った空気、泳いだ海、恋をした山の寺、何もかも、逆もどりしているような気がする。
 尾道を去る時の私は、肩上げもあったが、今の私の姿は、銀杏返えし、何度も水をくゞった疲れた単衣、別にこんな姿で行きたい家もないが、兎に角、もう汽車は尾道、肥料臭い匂いがする。

 午後五時
 船宿の時計が五時をさしている。待合所の二階から、町の灯を見ていると、妙に目頭が熱くなる。訪ずねて行こうと思
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