。夜になつて戻つて來た妙子は、うかない顏つきで、
「お父さん、宮内さん駄目よ。あのひと、變なひとだわ……年下の好きなひとがあつたンですつて、急に何とも云はないで、横須賀へ行つちやつたンだつて……そのひとゝは一緒にゐないンだつて……でもね、宮内さん、お父さんの話は氣が變つたのよ。どうも、調子がよすぎるとは思つたけど、あの位の女のひとは、かへつて、娘よりもあつかひにくいものだつて河邊さんのをぢさん云つてたわ。迷ひの深いひとは、貰つてもお父さんが不幸だつて思つたから、私、お父さんもあきらめるでせうから、ことわつておいて下さいつて云つてきたの。をぢさん、またいゝひとがみつかつたらお世話しますつて、明日あたりうかゞふつて云つてましたわ」
 隆吉は内心おだやかではなかつた。すつかり貰ふつもりで、愉しい夢を描いてゐた。鷄も二羽とも店につかふつもりで、新しい妻の寢ざめの心づかひまでしてゐた自分の氣持がみじめになつて來た。粗末な木口ではあつたが、木の香の匂ひが、いまでは不安をさそふ匂ひは[#「匂ひは」はママ]かはつた。

 隆吉は、亮太郎にきいた横須賀の宮内の住居を尋ねてみべるく、思ひきつて、今日は東京驛まで來たのであつたが、幾度となく出這いりしてゐる電車や汽車のものすごい音に氣持が重く屈して來るのを感じた。
 はずみ[#「はずみ」に傍点]だけで、この老人をつかまへて見合ひをさせられたのはやりきれない事だが、いまさら女を追つたところで、詮もないことであるに違ひない……。
 暫くホームに立つて、賑やかな乘り降りの人の群をみてゐると、隆吉はしみじみと孤獨を感じた。いまさら實盛氣取でもあるまい。
 このまゝ居酒屋崩浪亭の親爺で終ることもいゝではないかと、ふつと四圍をみ廻した。十一月の寒々とした氣配が、かうした草木のない驛のなかにも、ひそやかにたゞようてゐる。
 乘る人降りる人、みなそれぞれに營みがある。隆吉は、また、明日から.鷄の時を告げる聲をきかなければならないだらう。それも亦まんざら愉しくない事はない……。
 人間の心と云ふものは、いつまでたつても、かうしたはずみ[#「はずみ」に傍点]を食つてどうにもならぬほど氣持を追ひつめる時があるものだと、隆吉は人生五十年の自分の年齡の、燭火の佗しさに思ひ到り、冷たくなつた靴のさきをふみしめて省線のホームの方へ降りて行つた。
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