売りつくして、紅い海水着で暮らしていました。掘の内の墓場に近い広い庭園の中の家で、着物がなくても気兼ねすることはありませんでしたが、ある日、大きな鞄《かばん》をさげて一人の紳士が私を訪れて来ました。折悪《おりあ》しく、その紅い海水着のまま、台所とも玄関ともつかない所で洗濯していた私は、ぞんざいな口調で、「何ですか」と尋ねたものです。「改造社のものです」と、その紳士は私に名刺を出しました。私は、裸に近い自分に赤面してしまって、とにかく、着物もないのですからむき出しのひざ[#「ひざ」に傍点]小僧へ手拭をあてて縁側《えんがわ》へ坐って挨拶しました。その方が、改造社の鈴木一意氏でした。
 私は、その秋の改造十月号に『九州炭坑街放浪記』と云う一文を載せて貰うことが出来ました。その時のうれしさは何にたとえるすべもありません。広告が新聞に出ると、私は、その十月号の執筆者の名前をみんな覚えこんだものでした。創作では、久米正雄《くめまさお》氏のモン・アミが大きな活字で出ていました。森田草平《もりたそうへい》氏の四十八人目と云うのや、谷崎潤一郎《たにざきじゅんいちろう》氏の卍《まんじ》、川端康成氏の温泉宿、野上弥生子《のがみやえこ》氏の燃ゆる薔薇、里見※[#「弓+椁のつくり」、第3水準1−84−22]《さとみとん》氏の大地、岩藤雪夫《いわとうゆきお》氏の闘いを襲《つ》ぐもの、この七篇の華々しい小説が、どんなに私をシゲキしてくれたか知れないのです。なお、斎藤茂吉《さいとうもきち》氏のミュンヘン雑記や、室生犀星氏の文学を包囲する速力、三木清《みききよし》氏の啓蒙文学論、河上肇《かわかみはじめ》氏の第二貧乏物語、ピリニヤークの狼の綻《おきて》などと云ったものは、書籍一冊も売りつくして持たない私を、どんなにはげましてくれたかしれません。私の炭坑街放浪記では二ヶ月は遊んで暮らせるほど稿料を貰いました。
 その頃、私は稿料と云うものなど思いも及ばなかったのです。私は、雑文を書いては、紹介状もないのにひとりで新聞社へ出掛けて行きました。朝、八時頃、堀の内を発足して丸の内まで歩いて行きますと、十一時頃丸の内に着き、そこで、新聞社に原稿を置いて帰って来るのですが、一度は夕方帰って見ると、もはや速達で原稿が送り返されて来たりしておりました。私の雑文は、詩も随筆も小説も、みんな一つとして満足に売れたことはありませんのに、改造社から、稿料を貰った時はひどく身に沁《し》みる思いでした。――女人芸術には、毎月続けて放浪記を書いておりましたが、女人芸術は、何時か左翼の方の雑誌のようになってしまっていましたので、一年ほど続けて止めてしまいました。平林たい子さんは、文芸戦線から押されてその時はそうそうたる作家になっていました。女人芸術に拠っていました時、中本たか子さんや、宇野千代《うのちよ》さんを知りました。宇野千代氏は、当時、私の最も敬愛する作家でした。
 この頃から、私は図書館を放浪しはじめ上野の図書館へは一年ほど通いました。此様に私にとって愉しい時代はありませんでした。眼は近くなり乱視の状態にまでなりましたが、私は毎日図書館通いをして乱読暴読しました。ここでは岡倉天心《おかくらてんしん》の茶の本とか唐詩選、安倍能成《あべよししげ》と云う方のカントの宗教哲学と云ったぜいたく[#「ぜいたく」に傍点]な書物まで乱読しました。この頃から小説を書いてみたいと思い始めましたが、長い間雑文にまみ[#「まみ」に傍点]れていましたので、私の筆は荒《すさ》んでいて、二、三枚も書き始めると、自分に絶望して来るのです。詩から出発していましたせいか、詩で云えば十行で書き尽くせるような情熱を、湯をさます[#「さます」に傍点]ようにして五十枚にも百枚にも伸ばして書く小説体と云うものが大変苦痛だったのです。段々、詩は人に読まれなくなっていましたが、詩へ向う私の心は烈《はげ》しいものでした。
 私は女友達の松下文子と云う方から五拾円貰って、牛込《うしごめ》の南宋書院の主人の好意で『蒼馬を見たり』と云う詩集を出しました。松下文子と云う人は、私にとっては忘れる事の出来ない友人なのです。いまは北海道の旭川に帰り、林学博士松下真孝氏と結婚されているのですが、私の詩集も、このひとの友情がなかったら出版されていなかったのでしょう。
 さて、詩集を出版したものの私の文学についての目標は依然として暗澹たるものでした。私の放浪記は好評悪評さまざまで、華々しい左翼の人たちからはルンペンとして一笑されていました。昭和五年改造社から、新鋭叢書と云った単行本のシリイズが出ましたが、その中へ、私の放浪記も加えられたのです。改造社へ放浪記の厚い原稿を持ち込んで二年目に、陽《ひ》の目を見ることが出来たのですが、そのときは頭が痛いほどうれしく、私は身分不相応に貰った印税で、その秋、すぐ支那へ二ヶ月の予定で旅立って行きました。大いに考えるつもりでもあったのです。旅の間中、小説を書きたいと思いました。
 昭和六年三月、私は処女作として『風琴と魚の町』と云うのを改造へ書かせて貰いましたが、大人の童話のようなものでした。小説の形式では、その年の正月から約二ヶ月、東京朝日新聞の夕刊に『浅春譜』と云うのを発表していましたが、大変失敗の作でした。
 プロレタリア文学はますますさかんでした。私は、孤立無援の状態で、自分の一切に絶望していました。仕事してゆく自信、生きてゆく自信がなくなり、どこか外国へ行ってみたくて仕方がありませんでした。
 旧作、『清貧の書』の書きなおしにかかり、その年の改造十月号に清貧の書を送り、雑文でよせあつめた金を持って、私はシベリア経由で、昭和六年|仏蘭西《フランス》へ旅立って行きました。なかなか、この当時、私は行動主義でもあったわけです。再び日本へは帰って来られないと思いました。シベリアのさまざまな雪景色を眺めて、外国でのたれ死にするかも知れないと、本気でそんなことを考えていました。巴里《パリ》に着いてからも私から雑文書きの仕事は離れないのです。着くと早々フランが高くなった為に、私は毎日々々アパルトマンの七階の部屋で雑文を書き、巴里へ送って来た金を逆に日本の両親のもとへ送らなければならなかったのです。巴里では栄養不良の一種で鳥眼《とりめ》になってしまいました。夜分になると視力が衰え、何をする勇気もないのです。
 眼を病《や》んで寝ている時、渡辺一夫《わたなべかずお》氏たちにお見舞を受けたのですが、その時のうれしさは随分でした。欧洲にいる間、私は一つの詩、一つの小説も書きません。昭和七年の正月、倫敦《ロンドン》に渡ってゆきましたが、ここでは寒さに閉じこめられて、落ちついて読書することが出来ました。ケンシントン街の小さいパンションにいましたが、毎日部屋にこもってばかりいました。詩を沢山読みました――ガルスワアジイと云うひとの、「生とは何か? 水平な波の飛び上ること、灰となった火のぱっと燃えること、空気のない墓場に生きている風! 死とは何か? 不滅な太陽の沈むこと、眠らない月のねむること、始まらない物語りの終局《おわり》!」このような詩に、私は少女の頃、ああそはかのひとかと聞いた日を憶い出して、心を熱くたぎらせたものでした。立派な詩を書きたいと思いました。欧洲にいると、不思議に詩が生活にぴったりして来ますし、日本の言葉でうたった日本の詩が、随分美しく聞えるのです。日本の言葉はきたないから詩には不向きだと云うひともあるけれど、随分もったいない話で、私は欧洲にいて日本の言葉の美しさ、日本の詩や歌の美しさを識《し》りました。
 日本の言葉の一つもない欧洲の空で、白秋《はくしゅう》氏の詩でも、犀星氏の詩でも春夫氏の詩でも声高くうたってみると、言葉の見事さに打たれます。私は日本の言葉を大変美しいと思い、ひそかに自分の母国語にほこり[#「ほこり」に傍点]さえ持ちました。倫敦《ロンドン》の宿では川端康成氏の落葉と云う小説にも言葉の美しさを感じました。
 長い小説を書きたいと思いましたが、根気がないものだから、一枚も出来ませんでした。ここでは、紀行文風な随筆ばかり書いていました。日本へ帰れるあては依然としてないのです。ここでも眼を患いましたが、歩くのに不自由はしませんでした。三月に再び巴里《パリ》までまい戻って、私は日本に帰りたいことにあせり始めました。
 焦々《いらいら》するのは、詩一つ出来なかったからでしょう。巴里に帰ってみると、あてにしていた稿料が、本人行先不明で日本へ返されていたのにはがっかりしました。
 昭和七年の夏、山本改造社長の好意で旅費を送って貰い、私は欧洲から再び日本の土を踏むことが出来ました。日本へ上陸するなり考えたことはすばらしい詩を書きたいと思ったことです。血の気のない古色をおびた小説が私の眼にうつり始め、私は日本の若い作家に軽い失望を感じたりしたのです。一年あまりの欧洲滞在で、私は感覚ばかりが逞《たくま》しくなったようです。感覚ばかりが逞しい故に、自分の作品の上の技巧はかえって稚拙なもので、一年の間は、散文のような小説を書いていました。河上徹太郎《かわかみてつたろう》氏、小林秀雄《こばやしひでお》氏たちに深切《しんせつ》な批評を貰いました。曲りなりにも血の気の多い作品を書きたいと思っていたのです。日本のいまの文学から消えているものは詩脈ではないかと思ったりしました。詩のない世界に何の文学ぞやと思ったりしました。ちつじょ[#「ちつじょ」に傍点]立った大論文も書けないので、いまさら詩を論じることは笑われそうだけれども、私は欧州で感じた日本の言葉の美しいのに愕《おどろ》き、その言葉で歌った日本の詩に金鉱を掘りあてたようなほこり[#「ほこり」に傍点]を持ったのです。近年、ロマン主義だとか能動精神だとか行動主義だとか云われるようになったけれども、誰も彼も詩を探しているのではないだろうかと思ったりします。大切なものが忘れられているような気がします。
 帰って来ても、相変らず孤独で、いずれのグループにも拠っていないのですが、こつこつやって、努力するしか仕方がないと思っています。
 帰ってすぐ、私は詩へのあこがれから、自費出版の形式で『面影』と云う未熟な詩集を出しました。保高徳蔵《やすたかとくぞう》氏の友情で出せたのですが、百の自分の小説よりも愉しいのです。
 頃日《けいじつ》、私はやっと雑文を書く世界から解放されましたが、随分この時代が長かっただけに、ここから抜け出すことが大変苦しかったのです、これから再出発して小説と詩に専念したいと思います。生意気な話だけれども、ツルゲーネフにしたって、イプセンにしたって、フィリップにしたって、犀星にしても春夫にしても沢山いい詩を発表しているのですから、小説のかたわら詩を書けることは、自分自身に大変勇気の出ることだと思います。秋元氏の訳された作家プウシキンのうぐいすも、大変私をシゲキしてくれます。「くらく、しずけき真夜中を、園にして薔薇の色香をたたえつつ、鴬うたう。されども薔薇は、心ある鳥の歌に答えせず。うつらうつらと夢心地、たのしき歌を聞きつつも、ただにまどろむ。同じからずや、詩人《うたびと》よ、君がさだめのうぐいすに……」もうこんなのを読みますと、仕事々々と思います。日本の犀星氏、春夫氏も大事にしてあげなくてはいけないと思ったりします。
 私はいま、七人の家族で暮らしています。昔のように、食べることにはどうやら困らなくなりましたが、これからが大変だと思います。本当の文学的自叙伝もこれから生れて来るのだと考えております。



底本:「林芙美子随筆集」岩波文庫、岩波書店
   2003(平成15)年2月14日第1刷発行
   2003(平成15)年3月5日第2刷発行
初出:「改造 昭和10年8月号」
   1935(昭和10)年8月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:林 幸雄
校正:noriko saito

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