は持参しなかったけれども、転々と持ちあるいて黄色くなった私の詩稿を先生にお見せした事があります。(これはまるでつくりごとのようだけれども)私の詩集を読んで眼鏡《めがね》を外《は》ずして先生は泣いていられました。私はその時、先生のお家で一生女中になりたいと思った位です。たった一言「いい詩だ」と云って下すったことが、やけになって、生きていたくもないと思っていた私を、どんなに勇ましくした事か……、私はうれしくて仕方がないので、先生のお家の玄関へある夜|西瓜《すいか》を置いて来ました。あとで聞いたのだけれどもいつか徳田先生と私と順子さんと、来合わしていた青年のひとと散歩をしてお汁粉《しるこ》を先生に御馳走になったのですが、その青年のひとが窪川鶴次郎《くぼかわつるじろう》氏だったりしました。私はひとりになると、よく徳田先生のお家へ行ったし、先生は、御飯を御馳走して下すったり落語をききに連れて行って下すったりしました。先生と二人で冬の寒い夜、本郷丸山町の深尾須磨子さんのお家を訪ねて行ったりして、お留守であった思い出もあるのですが、考えてみると、私を、今日のような道に誘って下すったのは徳田先生のような気がしてなりません。
 昭和元年、私は現在の良人《おっと》と結婚しました。文芸戦線から退いて、孤独になって雑文書きに専念しました。才能もない人間には努力より他になく、この年頃から、私はようやく、何か書いてみたいと思い始めました。結婚生活に這入っても、生活は以前より何層倍も辛く、米の買える日が珍らしい位で、良人の年に三度ある国技館のバック描きの仕事と、私の年に二、三度位売れる雑文で月日を過ごしました。
 その時分、私はもう詩が書けなくなっていました。日記を雑記帳に六冊ばかり書き溜めていましたが、これを当時|長谷川時雨《はせがわしぐれ》女史によって創刊された女人芸術の二号位から載せて貰いました。三上於菟吉《みかみおときち》氏が大変|讃《ほ》めて下すったのを心に銘じています。――この頃から、私はフィリップに溺《おぼ》れ始め、フィリップの若き日の手紙には身に徹しるものを感じました。私は、まるで大洪水に逢ったように、売るあて[#「あて」に傍点]もない原稿の乱作をしました。『清貧の書』と云う作品もこの時代に書きました。この時代ほど乱作した事はありません。昭和四年の夏、私は着る浴衣《ゆかた》さえも売りつくして、紅い海水着で暮らしていました。掘の内の墓場に近い広い庭園の中の家で、着物がなくても気兼ねすることはありませんでしたが、ある日、大きな鞄《かばん》をさげて一人の紳士が私を訪れて来ました。折悪《おりあ》しく、その紅い海水着のまま、台所とも玄関ともつかない所で洗濯していた私は、ぞんざいな口調で、「何ですか」と尋ねたものです。「改造社のものです」と、その紳士は私に名刺を出しました。私は、裸に近い自分に赤面してしまって、とにかく、着物もないのですからむき出しのひざ[#「ひざ」に傍点]小僧へ手拭をあてて縁側《えんがわ》へ坐って挨拶しました。その方が、改造社の鈴木一意氏でした。
 私は、その秋の改造十月号に『九州炭坑街放浪記』と云う一文を載せて貰うことが出来ました。その時のうれしさは何にたとえるすべもありません。広告が新聞に出ると、私は、その十月号の執筆者の名前をみんな覚えこんだものでした。創作では、久米正雄《くめまさお》氏のモン・アミが大きな活字で出ていました。森田草平《もりたそうへい》氏の四十八人目と云うのや、谷崎潤一郎《たにざきじゅんいちろう》氏の卍《まんじ》、川端康成氏の温泉宿、野上弥生子《のがみやえこ》氏の燃ゆる薔薇、里見※[#「弓+椁のつくり」、第3水準1−84−22]《さとみとん》氏の大地、岩藤雪夫《いわとうゆきお》氏の闘いを襲《つ》ぐもの、この七篇の華々しい小説が、どんなに私をシゲキしてくれたか知れないのです。なお、斎藤茂吉《さいとうもきち》氏のミュンヘン雑記や、室生犀星氏の文学を包囲する速力、三木清《みききよし》氏の啓蒙文学論、河上肇《かわかみはじめ》氏の第二貧乏物語、ピリニヤークの狼の綻《おきて》などと云ったものは、書籍一冊も売りつくして持たない私を、どんなにはげましてくれたかしれません。私の炭坑街放浪記では二ヶ月は遊んで暮らせるほど稿料を貰いました。
 その頃、私は稿料と云うものなど思いも及ばなかったのです。私は、雑文を書いては、紹介状もないのにひとりで新聞社へ出掛けて行きました。朝、八時頃、堀の内を発足して丸の内まで歩いて行きますと、十一時頃丸の内に着き、そこで、新聞社に原稿を置いて帰って来るのですが、一度は夕方帰って見ると、もはや速達で原稿が送り返されて来たりしておりました。私の雑文は、詩も随筆も小説も、みんな一つとして満足に売れたことはあ
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