を熱くたぎらせたものでした。立派な詩を書きたいと思いました。欧洲にいると、不思議に詩が生活にぴったりして来ますし、日本の言葉でうたった日本の詩が、随分美しく聞えるのです。日本の言葉はきたないから詩には不向きだと云うひともあるけれど、随分もったいない話で、私は欧洲にいて日本の言葉の美しさ、日本の詩や歌の美しさを識《し》りました。
日本の言葉の一つもない欧洲の空で、白秋《はくしゅう》氏の詩でも、犀星氏の詩でも春夫氏の詩でも声高くうたってみると、言葉の見事さに打たれます。私は日本の言葉を大変美しいと思い、ひそかに自分の母国語にほこり[#「ほこり」に傍点]さえ持ちました。倫敦《ロンドン》の宿では川端康成氏の落葉と云う小説にも言葉の美しさを感じました。
長い小説を書きたいと思いましたが、根気がないものだから、一枚も出来ませんでした。ここでは、紀行文風な随筆ばかり書いていました。日本へ帰れるあては依然としてないのです。ここでも眼を患いましたが、歩くのに不自由はしませんでした。三月に再び巴里《パリ》までまい戻って、私は日本に帰りたいことにあせり始めました。
焦々《いらいら》するのは、詩一つ出来なかったからでしょう。巴里に帰ってみると、あてにしていた稿料が、本人行先不明で日本へ返されていたのにはがっかりしました。
昭和七年の夏、山本改造社長の好意で旅費を送って貰い、私は欧洲から再び日本の土を踏むことが出来ました。日本へ上陸するなり考えたことはすばらしい詩を書きたいと思ったことです。血の気のない古色をおびた小説が私の眼にうつり始め、私は日本の若い作家に軽い失望を感じたりしたのです。一年あまりの欧洲滞在で、私は感覚ばかりが逞《たくま》しくなったようです。感覚ばかりが逞しい故に、自分の作品の上の技巧はかえって稚拙なもので、一年の間は、散文のような小説を書いていました。河上徹太郎《かわかみてつたろう》氏、小林秀雄《こばやしひでお》氏たちに深切《しんせつ》な批評を貰いました。曲りなりにも血の気の多い作品を書きたいと思っていたのです。日本のいまの文学から消えているものは詩脈ではないかと思ったりしました。詩のない世界に何の文学ぞやと思ったりしました。ちつじょ[#「ちつじょ」に傍点]立った大論文も書けないので、いまさら詩を論じることは笑われそうだけれども、私は欧州で感じた日本の言葉の美しいのに愕《おどろ》き、その言葉で歌った日本の詩に金鉱を掘りあてたようなほこり[#「ほこり」に傍点]を持ったのです。近年、ロマン主義だとか能動精神だとか行動主義だとか云われるようになったけれども、誰も彼も詩を探しているのではないだろうかと思ったりします。大切なものが忘れられているような気がします。
帰って来ても、相変らず孤独で、いずれのグループにも拠っていないのですが、こつこつやって、努力するしか仕方がないと思っています。
帰ってすぐ、私は詩へのあこがれから、自費出版の形式で『面影』と云う未熟な詩集を出しました。保高徳蔵《やすたかとくぞう》氏の友情で出せたのですが、百の自分の小説よりも愉しいのです。
頃日《けいじつ》、私はやっと雑文を書く世界から解放されましたが、随分この時代が長かっただけに、ここから抜け出すことが大変苦しかったのです、これから再出発して小説と詩に専念したいと思います。生意気な話だけれども、ツルゲーネフにしたって、イプセンにしたって、フィリップにしたって、犀星にしても春夫にしても沢山いい詩を発表しているのですから、小説のかたわら詩を書けることは、自分自身に大変勇気の出ることだと思います。秋元氏の訳された作家プウシキンのうぐいすも、大変私をシゲキしてくれます。「くらく、しずけき真夜中を、園にして薔薇の色香をたたえつつ、鴬うたう。されども薔薇は、心ある鳥の歌に答えせず。うつらうつらと夢心地、たのしき歌を聞きつつも、ただにまどろむ。同じからずや、詩人《うたびと》よ、君がさだめのうぐいすに……」もうこんなのを読みますと、仕事々々と思います。日本の犀星氏、春夫氏も大事にしてあげなくてはいけないと思ったりします。
私はいま、七人の家族で暮らしています。昔のように、食べることにはどうやら困らなくなりましたが、これからが大変だと思います。本当の文学的自叙伝もこれから生れて来るのだと考えております。
底本:「林芙美子随筆集」岩波文庫、岩波書店
2003(平成15)年2月14日第1刷発行
2003(平成15)年3月5日第2刷発行
初出:「改造 昭和10年8月号」
1935(昭和10)年8月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:林 幸雄
校正:noriko saito
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