文学的自叙伝
林芙美子

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)尾《お》の道《みち》と云う

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)文章|倶楽部《くらぶ》と

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)里見※[#「弓+椁のつくり」、第3水準1−84−22]《さとみとん》氏
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 岡山と広島の間に尾《お》の道《みち》と云う小さな町があります。ほんの腰掛けのつもりで足を止めたこの尾の道と云う海岸町に、私は両親と三人で七年ばかり住んでいました。この町ではたった一つしかない市立の女学校に這入《はい》りました。女学校は小さい図書室を持っていて、『奥の細道』とか、『八犬伝』とか、吉屋信子《よしやのぶこ》女史の『屋根裏の二処女』とか云った本が置いてありました。学校の教室や、寄宿舎は、どれも眺めのいい窓を持っていましたのに、図書室だけは陰気で、運動具の亜鈴《あれい》や、鉄の輪のようなものまで置いてありましたので、何時《いつ》行ってもこの図書室は閑散でした。私はこの図書室で、ホワイト・ファングだの、鈴木三重吉《すずきみえきち》の『瓦』だのを読みました。平凡な娘がひととおりはそのようなものに眼を通す、そんな、感激のない日常でした。両親は、毎日、或いは泊りがけで、近くの町や村へ雑貨の行商に行っておりましたので、誰もいない家へ帰るのが厭《いや》で、私は女学校を卒業する四年の間、ほとんど、この陰気な図書室で暮らしておりました。目立たない生徒で、仲のいい友人も一人もありませんでした。無細工なおかしな娘だったので、自然と私も遠慮勝ちで友達をもとめなかったことと思います。二年生の時、椿姫の唄を唱歌室で聴きました。新任の亀井花子と云う音楽教師がレコードをかけてくれたのです。「ああそはかのひとか、うたげのなかに……」と云ったような言葉でしたが、唱歌の判らない私にも、その言葉は心が燃えるほど綺麗だったのです。上級にすすんで、私はウェルテル叢書を読むようになりました。橙《だいだい》色のような小さい赤い本で、マノン・レスコオだの、ポオルとヴィルジニイだの、カルメン、若きウェルテルの悲しみ、など読み耽《ふけ》りました。私たちの受持教師に森要人と云う、五十歳位の年配の方がいました。雨が降ると、詩と云うものを読んで聞かしてくれました。レールモントフと云うひとの少女の歌える歌とか云う、

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かり[#「かり」に傍点]する人の鎗《やり》に似て
小舟は早くみどりなる
海のおもてを走るなり
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 と云ったものや、ハイネ、ホイットマン、アイヘンドルフ、ノヴァリス、カアル・ブッセと云った外国の詩を読んでくれました。その外国の人たちがどんな詩を書いていたのか、みんな忘れてしまったけれども、随分心温かでした。生徒はみんなノートしているのに、私だけはノートもしないで、眼をつぶってその詩にききほれたものでした。ビヨルソンの詩とか、プウシキンのうぐいすと云う名前など、綺麗な唄なので覚えています。自然に、私は詩が大変好きになりました。燃えあがる悲しみやよろこばしさを、不自由もなく歌える詩と云うものを組しやすしと考えてか、埒《らち》もない風景詩をその頃書きつけて愉《たの》しんでいました。
 大正十一年の春、女学校生活が終ると、何の目的もなく、世の常の娘のように、私は身一つで東京へ出て参りました。汽車の煤煙が眼に這入って、半年も眼を患《わずら》い、生活の不如意と、目的のない焦々《いらいら》しさで困ってしまいました。半年もすると、両親は尾の道を引きはらい、東京の私の処へやって参りました。私は東京へ来てから雑誌ひとつ見ることが出来ませんでした。また読みたいとも思わず、私は、大正十一年の秋、やっと職をみつけて、赤坂の小学新報社と云うのに、帯封《おびふう》書きに傭《やと》われて行きました。日給が七拾銭位だったでしょう。東中野の川添と云う田圃《たんぼ》の中の駄菓子屋の二階に両親といました。私は、このあたりから文学的自叙伝などとはおよそ縁遠い生活に這入り、ただ、働きたべるための月日をおくりました。日給がすくないので、株屋の事務員をしたりしました。日本橋に千代田橋と云うのがあります。白木屋《しろきや》のそばで繁華な街でした。橋のそばの日立商会と云う株屋さんに月給参拾円で通いましたが、ここも三、四ヶ月で馘《くび》になり、私は両親と一緒に神楽坂《かくらざか》だの道玄坂だのに雑貨の夜店を出すに至りました。初めのうちは大変はずかしかったのですけれども、馴《な》れて来ると、私は両親と別れて、一人で夜店を出すようになりました。寒い晩などは、焼けるよう
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