に、寢たなりで、天井へ團扇の風をおくつてゐた。四隅から網のやうにたれさがつてゐた蚊帳の天井は團扇の風であふられるたび、波のやうにうねうねと波立つてゐる。
 健吉はひとりで、雲こい、空こい、天井こい、みんなのんでやるぞと云ひながら、天井へ、激しくゆるく、團扇で風をおくつてゐた。
「早くねんねなさいよ‥‥」
 ふじ子は、健吉ののこした親子井をたべてゐた。暗い空へ時々、サーチライトが光つてゐる。びろうどのやうに暑くるしい暗い空へ、銀河のやうな青い光芒が、遠くの方で交叉されたりしてゐた。ふじ子はうどんも殘さずに食べた。
 あわたゞしいこの數日の苦しみを、よく、こゝまで耐へて來られたとふじ子は、自分ながら不思議な氣持である。

     2

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こよなき寶のさかづきを
乾しけりうたげのたびごとに
この杯ゆのむ酒は
涙をさそふ酒なりき
[#ここで字下げ終わり]

 食堂車の窓から、走つてゆく景色を眺めながら、廣太郎はひとりでビールを飮んでゐた。酒の氣がないときは、變つた人のやうに靜かでおとなしい性格だのに、酒がはいると、そはそはと落ちつきがなくなつてきて、口ぐせの、ツウレの王の酒の唄をうたつてゐるのだ。
 廣太郎はふじ子と結婚して八年になる。
 子供が二人出來て、月給はやつと百貳拾圓になつた。八年の間、何の變哲もない、平々凡々な生活であつた。廣太郎へのひなん[#「ひなん」に傍点]と云へば酒好きなところがふじ子には不平であつたが、一家を困らせるやうな飮みぶりは今までにあまりなかつた。
 廣太郎は、信託會社の不動産課に勤めてゐて、月のうち、二週間位はあつちこつち地方を廻つて歩いてゐる。
 八年の間と云ふもの、邸や、山林や、田畑ばかり、人のものを見て歩いてゐたけれど、つくづくこの仕事に飽きてしまひ、廣太郎はいまはなかだるみな状態になりつゝあつた。自分では、こんな状態はいけないことだと思はないでもなかつたけれど、水の流れは、自分の抗しがたい方へ假借なくどんどん流れてゆく。――家庭の平和さへも妙に癪にさはつて來て、廣太郎は毎晩のやうに夜更けまで安い酒場を廻つて歩いてゐた。
 水先案内をうしなつたやうに、うろうろしてゐる自分の姿を、深夜の街にみいだしては、時にうつろな淋しい氣持になる時もあつたけれど、さて、現在の自分に何をなすべきかとたづねたところで、自分を救つてくれるやうな、媒介物もみあたらない。廣太郎はいつそ、この職業を捨ててしまつて、他に何か新しい職業をみつけてみようかとも考へてゐた。
 一生涯、人の山林を歩き、人の邸のなかをのぞいて値ぶみをして歩くことは、自分の生涯の主軸としてはなさけない氣持がしてならなかつた。よしツ! 俺は何かやらう‥‥酒の力をかりて、時には明日にでも、現在の職業から離れ得る自信に滿々とした思ひを持ちながら、家へかへつて來ると、妻や子供のうす汚なさに引きずられて、ずるずると他愛もなく無爲な歳月が過ぎていつてしまふ。

 八重子が廣太郎の前へ現れたのは、丁度、こんな時分であつた。――八重子は、銀座裏の酒場の女給をしてゐて、年は二十三だと云つてゐた。千葉の女で、まだ田舍から出て來たばかりらしく、着物のこのみも、化粧のしかたも土くさい感じだつたが、八重子は非常におとなしかつたので、荒んでゐる廣太郎の興味をそゝつた。
 八重子は芝の三田小山町に弟と二人で、二階借りをして住んでゐた。弟は晝間は會社の給仕をしてゐて夜は夜學に行つてゐる樣子である。――自分の生活が、八重子とのさゝやかな戀愛で、こんなに明るく燃えあがらうとは思はなかつたし、しかも、大學を出たての青年のやうに、野心が躯ぢゆうにみなぎつて來るこのごろを、廣太郎はくすぐつたく考へてゐた。
 ふじ子は、急に良人の生々としてきたそぶりをみせつけられると、妻らしい敏感さで第六感を働かしてゐるやうであつた。別に根掘り葉掘りのありさまではなかつたけれど、悶々としてゐるところが廣太郎には察しられてゐた。
 こんな、むしむしした夫婦の状態が半年ばかりもつゞき、廣太郎は自分でも大人氣ないとは思ひつゝも、たうとう家を出てしまひ、八重子と郊外の宿屋で二三日遊びつづけてゐた。
 たとひ我《われ》わが財産《たから》をことごとく施し、又わがからだを燒かるゝ爲に付《わた》すとも、愛なくば我に益なし。コリント書の一節をくちずさみながら八重子のそばにゐることを、廣太郎は幸福に感じてゐた。女のあさぐろい皮膚は、いま海からあがつたやうな、鹽つぽさと新鮮さがあつて、このまゝ海の底ふかく溺れてしまつてもよいやうな、そんな男の熱情をかきたててくれる。
 廣太郎が疲れて家へ戻つて來たのは、家を出てから四日目の夜であつた。ふじ子は默つてゐた。子供たちもいやにおとなしかつた。何かひそんでゐるやうな不氣味
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