り、これは、案外、本当のわかればなしになつてしまふかも知れないぞと、頭を畳へおとして眼を絞るやうに固くとぢてしまふ。
「一寸、何? 灯火がまぶしいの?」
「‥‥‥‥」
 嘉吉が、顰め面をして瞼をとじてゐるので、なか子が灯火でもまぶしいのだらうと嘉吉の顔の上の電気を、くたびれたやうな蚊帳の吊手で引つぱつて、灯火を部屋の隅の方へ持つて行つてやつた。さうして立ちあがつた序手に、鏡台の前に坐り、蜂蜜[#「蜂蜜」は底本では「蜂密」]を小指にすくつて荒れた唇につけてゐる。――ふたりにとつて、別に派手なおもひ出もなかつたが、三四年も一緒だと、三四年の間の汐のしぶきが、どぶんどぶんと打ちよせて来て、鏡を見ながら、なか子は自分がづぶ濡れになつたやうな寒さを感じた。だが、いまさら、現在のやうな生活を続けてゆかうとは思はなかつたし、薄情のやうだけれども、嘉吉の性格には最早、飽き飽きさせられてゐた。「わかれるにしても、昔のやうに何でも自由になる時ならば寝覚めもいいけれど、いまのやうな一文なしになつてしまつて、あんたに何もしてやれないじやあ、どうにも気色が悪い」とわかればなしが出ると、嘉吉はそんな人情家ぶつたことを云つて、なか子に後の句をつがせなかつたが、なか子にとつては、それは擽ぐつたい話で、嘉吉が華かであつたからと云つて、別に愉しい思ひをしたわけではなし、なか子にとつてはむしろ地味すぎる位な生活で、四年の間、こんな男の世話になつて、よくも煤けてゐられたものだと考へる。――昔のやうに何でも自由になつてゐたら、と、嘉吉はよく云ひ云ひするけれども、たかゞ一軒立ての洋品屋で、それも大した繁昌とは思はれなかつたし、先妻の亡くなつたぢき後へ這入つて行つたので、なか子のやうな派手な女にとつては、陰気な暮しむきに見えた。先妻の使つてゐた鏡台の前に坐つても、妙に白いお化けが覗きこんで来るやうで仕方がない。――そのお化けの名はつる[#「つる」に傍点]と云つた。嘉吉が三十二で、亡妻のつるが二十九の時に神楽坂の藁店に、いまの小さい洋品店を開いたのだが間口三間ばかりの、北向きの引つこんだ家で、日あたりが悪いせいか、なか子は始めての冬に神経痛で寝ついてしまつた。
 洋品店と云つても、学生相手の安物ばかりで、襯衣とか、靴下とかの小物類が売れてゆく位で、陳列の中の鳥打帽子や、絹ポプリンのY襯衣なぞは、四年の間そこへ飾り
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