に、温い陽射しのなかへ、なか子は宿から講談本を借りて来てごろりとしてゐた。
「さア、いよいよ今夜は御帰京だな‥‥」
「‥‥‥‥」
なか子は、何時まで未練だらだらなのと云つた嶮はしい眼つきで黙つてゐる。――二人[#「二人」は底本では「一人」]はまた夜の汽車へ乗つた。二夜を旅空であかしたけれども、これといつて、二人に徹して来るものもなく、只、他愛のない離別の雰囲気が二人を何時までも苦しめるばかりであつた。――なか子にしても、さて、現実にぶつかつて見ると、年齢もとつてゐる、自分の躯のつかれもよく知つてゐた。嘉吉とちりぢりになつて、すぐその日から幸福がやつて来やうとは思はれなかつた。嘉吉にしても、金さへあれば、妻の一人や二人そんなに未練もなかつたが 金もなく家も捨てゝしまへば、妻と別れて孤独になることは何としても淋しくて耐へられない。文字通りの身一つで、これから立つてゆかなければならないと云ふことは妻の前では雄々しいことではあつたが、四十近かい男にとつては、何とない風の吹くやうな空威張りのところが漂ひ、嘉吉にはその空虚さが何となくたまらなかつた。まだ、妻と二人で飢えた方が、どんなにか気安いのだ。
東京へ帰へつて来ると、二人は汽車の中で相談したやうに、新宿裏の小料理屋をたづねて、女中の口を探がしてみることにした。兎に角、なか子の落ちつき場所をこしらへておいて、それから、自由な方向へ嘉吉が歩ゆんで行くと云ふのだ。
「ねえ、何だか雨が降つて来さうね」
「あゝ、少し降るぜ」
嘉吉は、陽にやけたインバネスの肩羽根をくるりと後へめくつて、空を見上げた。わかればなしを持ち出したものゝ、こゝまで突きあたつて見れば、こいつも淋しいのに違ひないと、嘉吉は、いつそ口が見つからなかつたら、町裏の木賃宿にでも泊る、そんな覚悟でゐた。軒並みにカフヱーやとんかつ屋や、小料理屋の並んでゐる新宿裏の路地へ這入ると、なか子は風呂敷包を嘉吉にあづけて、それらしい小料理屋へ一軒づゝ這入つて行つた。だが、結局決まつたのは小さい縄のれんのやうな飲食店で、なか子は出て来るなり面目のないやうな顰めた顔をして走つて来た。
「いゝさ、当分だもの、腰かけにいゝよ、気のおけない家ぢやないか」
嘉吉は何故か晴々とした気持ちでなか子を慰さめることが出来、かうして歩いてみて始めて、お前も自分の年齢を考へたゞらうと云はぬばかりの
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