方もない――。
 私は蜜柑《みかん》箱の机に凭《もた》れて童話のようなものをかき始める。外は雨の音なり。玉川の方で、絶え間なく鉄砲を打つ音がしている。深夜だと云うのに、元気のいい事だ。だが、いつまでこんな虫みたいな生活が続くのだろうか、うつむいて子供の無邪気な物語を書いていると、つい目頭が熱くなって来るのだ。
 イビツな男とニンシキフソクの女では、一生たったとて白い御飯が食えそうにもありません。

        *

(七月×日)
 胸に凍《しみ》るような侘《わび》しさだ。夕方、頭の禿《は》げた男の云う事には、「俺はこれから女郎買いに行くのだが、でもお前さんが好きになったよ、どうだい?」私は白いエプロンをくしゃくしゃに円めて、涙を口にくくんでいた。
「お母アさん! お母アさん!」
 何もかも厭になってしまって、二階の女給部屋の隅に寝ころんでいる。鼠が群をなして走っている。暗さが眼に馴れてくると、雑然と風呂敷包みが石塊のように四囲に転がっていて、寝巻や帯が、海草のように壁に乱れていた。煮えくり返るようなそうぞうしい階下の雑音の上に、おばけ[#「おばけ」に傍点]でも出て来そうに、女給部屋は淋しいのだ。ドクドクと流れ落ちる涙と、ガス[#「ガス」に傍点]のように抜けて行く悲しみの氾濫《はんらん》、何か正しい生活にありつきたいと思うなり。そうして落ちついて本を読みたいものだ。

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しゅうねく強く
家の貧苦、酒の癖、遊怠《あそび》の癖、
みなそれだ。
ああ、ああ、ああ

切りつけろそれらに
とんでのけろ、はねとばせ
私が何べん叫びよばった事か、苦しい、
血を吐くように芸術を吐き出して狂人のように踊りよろこぼう。
[#ここで字下げ終わり]

 槐多《かいた》はかくも叫びつづけている。こんなうらぶれた思いの日、チエホフよ、アルツイバアセフよ、シュニッツラア、私の心の古里を読みたいものだと思う。働くと云う事を辛いと思った事は一度もないけれど、今日こそ安息がほしいと思う。だが今はみんなお伽話《とぎばなし》のようなことだ。
 薄暗い部屋の中に、私は直哉《なおや》の「和解」を思い出していた。こんなカフエーの雑音に巻かれていると、日記をつける事さえおっくう[#「おっくう」に傍点]になって来ている。――まず雀が鳴いているところ、朗かな朝陽が長閑《のどか》に光っているところ、陽にあたって青葉の音が色が雨のように薫じているところ、槐多ではないけれど、狂人のように、一人居の住居が恋しくなりました。
 十方|空《むな》しく御座候だ。暗いので、私は只じっと眼をとじているなり。
「オイ! ゆみちゃんはどこへ行ったんだい?」
 階下でお上さんが呼んでいる。
「ゆみちゃん居るの? お上さんが呼んでてよ。」
「歯が痛いから寝てるって云って下さい。」
 八重ちゃんが乱暴に階下へ降りて行くと、漠々とした当のない痛い気持ちが、いっそ死んでしもうたなら[#「いっそ死んでしもうたなら」に傍点]と唄い出したくなっている。メフィストフェレスがそろそろ踊り出して来たぞ! 昔おえらいルナチャルスキイとなん申します方が、――生活とは何ぞや? 生ける有機体とは何ぞや? と云っている。ルナチャルスキイならずとも、生活とは何ぞや? 生ける有機体とは何ぞやである。落ちたるマグダラのマリヤよ、自己保存の能力を叩きこわしてしまうのだ。私は頭の下に両手を入れると、死ぬる空想をしていた。毒薬を呑む空想をした。「お女郎を買いに行くより、お前が好きになった。」何と人生とはくだらなく[#「くだらなく」に傍点]朗かである事だろう。どうせ故郷もない私、だが一人の母のことを考えると切なくなって来る。泥棒になってしまおうかしら、女馬賊になってしまおうかしら……。別れた男の顔が、熱い瞼《まぶた》に押して来る。
「オイ! ゆみちゃん、ひとが足りない事はよく知ってんだろう、少々位は我慢して階下へ降りて働いておくれよ。」
 お上さんが、声を尖《とが》らせて梯子《はしご》段を上って来た。ああ何もかも一切合財が煙だ砂だ泥だ。私はエプロンの紐《ひも》を締めなおすと、陽気に唄を唄いながら、海底のような階下の雑沓《ざっとう》の中へ降りて行った。

(七月×日)
 朝から雨なり。
 造ったばかりのコートを貸してやった女は、とうとう帰って来なかった。一夜の足留りと、コートを借りて、蛾《が》のように女は他の足留りへ行ってしまった。
「あんたは人がいいのよ、昔から人を見れば泥棒と思えって言葉があるじゃないの。」
 八重ちゃんが白いくるぶしを掻《か》きながら私を嘲笑《あざわら》っている。
「ヘエ! そんな言葉があったのかね。じゃ私も八重ちゃんの洋傘でも盗んで逃げて行こうかしら。」
 私がこんなことを云うと、寝ころんでいた由ち
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