遊びに来た。私はこの人と会うのは二度目だ。私がおさない頃、近松さんの家に女中にはいっていた時、この人は茫々としたむさくるしい姿で、牛の画を売りに来たことがあった。子供さんがジフテリヤで、大変侘し気な風采《ふうさい》だったのをおぼえている。靴をそろえる時、まるで河馬《かば》の口みたいに靴の底が離れていたものだった。私は小さい釘《くぎ》を持って来ると、そっと止めておいてあげた事がある。きっとこの人は気がつかなかったかも知れない。上野山さんは飄々と酒を呑みよく話している。夜、上野山氏は一人で帰って行った。
[#ここから2字下げ]
地球の廻転椅子に腰を掛けて
ガタンとひとまわりすれば
引きずる赤いスリッパが
片っ方飛んでしまった。
淋しいな……
オーイと呼んでも
誰も私のスリッパを取ってはくれぬ
度胸をきめて
廻転椅子から飛び降り
飛んだスリッパを取りに行こうか。
臆病な私の手はしっかり
廻転椅子にすがっている
オーイ誰でもいい
思い切り私の横面を
はりとばしてくれ
そしてはいているスリッパも飛ばしてくれ
私はゆっくり眠りたいのだ。
[#ここで字下げ終わり]
落ちつかない寝床の中で、私はこんな詩を頭に描いた。下で三時の鳩時計が鳴っている。
*
(六月×日)
世界は星と人とより成る。エミイル・ヴェルハアレンの「世界」と云う詩を読んでいるとこんな事が書いてあった。何もかもあくび[#「あくび」に傍点]ばかりの世の中である。私はこの小心者の詩人をケイベツしてやりましょう。人よ、攀《よ》じ難いあの山がいかに高いとても、飛躍の念さえ切ならば、恐れるなかれ不可能の、金の駿馬《しゅんめ》をせめたてよ。――実につまらない詩だけれども、才子と見えて実に巧《うま》い言葉を知っている。金の駿馬をせめたてよか……窓を横ぎって紅い風船が飛んで行く。呆然たり、呆然たり、呆然たりか……。何と住みにくい浮世でございましょう。
故郷より手紙が来る。
――現金主義になって、自分の口すぎ位はこっちに心配をかけないでくれ。才と云うものに自惚《うぬぼ》れてはならない。お母さんも、大分衰えている。一度帰っておいで、お前のブラブラ主義には不賛成です。――父より五円の為替。私は五円の為替を膝《ひざ》において、おありがとうござります。私はなさけなくなって、遠い故郷へ舌を出した。
(六月×日)
前の屍室《ししつ》には、今夜は青い灯がついている。又兵隊が一人死んだのだろう。青い窓の灯を横ぎって通夜をする兵隊の影が二ツぼんやりうつっている。
「あら! 螢《ほたる》が飛んどる。」
井戸端で黒島|伝治《でんじ》さんの細君がぼんやり空を見上げていた。
「ほんとう?」
寝そべっていた私も縁端に出てみたけれど、もう螢も何も見えなかった。
夜。隣の壺井夫婦、黒島夫婦遊びに見える。
壺井さん曰《いわ》く。
「今日はとても面白かったよ。黒島君と二人で市場へ盥《たらい》を買いに行ったら、金も払わないのに、三円いくらのつり[#「つり」に傍点]銭と盥をくれて一寸ドキッとしたぜ。」
「まあ! それはうらやましい、たしか、クヌウト・ハムスンの『飢え』と云う小説の中にも蝋燭《ろうそく》を買いに行って、五クローネルのつり銭と蝋燭をただでもらって来るところがありましたね。」
私も夫も、壺井さんの話は一寸うらやましかった。――泥沼に浮いた船のように、何と淋しい私達の長屋だろう。兵営の屍室と墓地と病院と、安カフエーに囲まれたこの太子堂の暗い家もあきあきしてしまった。
「時に、明日はたけのこ飯にしないかね。」
「たけのこ盗みに行くか……」
三人の男たちは路の向うの竹藪《たけやぶ》を背戸に持っている、床屋の二階の飯田さんをさそって、裏の丘へたけのこを盗みに出掛けて行った。女達は久しぶりに街の灯を見たかったけれども、あきらめて太子堂の縁日を歩いてみた。竹藪の小路に出した露店のカンテラの灯が噴水のように薫じていた。
(六月×日)
美しい透きとおった空なので、丘の上の緑を見たいと云って、久し振りに貧しい私達は散歩に出る話をした。鍵《かぎ》を締めて、一足おそく出て行ってみると、どっちへ行ったものか、夫の蔭はその辺に見えなかった。焦々して陽照りのはげしい丘の路を行ったり来たりしてみたけれど随分おかしな話である。待ちぼけを食ったと怒ってしまった夫は、私の背をはげしく突き飛ばすと閉ざした家へはいってしまった。又おこっている。私は泥棒猫のように台所から部屋へはいると、夫はいきなり束子《たわし》や茶碗を私の胸に投げつけて来た。ああ、この剽軽《ひょうきん》な粗忽《そこつ》者をそんなにも貴方は憎いと云うのですか……私は井戸端に立って蒼《あお》い雲を見ていた。右へ行く路が、左へまちがっていたからと云
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