降りてみたいなと思うなり。静岡にしようか、名古屋にしようか、だけど何だかそれも不安で仕方がない。暗い窓に凭《もた》れて、走っている人家の灯を見ていると、暗い窓にふっと私の顔が鏡を見ているようにはっきり写っている。

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男とも別れだ!
私の胸で子供達が赤い旗を振っている
そんなによろこんでくれるか
もう私はどこへも行かず
皆と旗を振って暮らそう。
皆そうして飛び出しておくれ、
そして石を積んでくれ
そして私を胴上げして
石の城の上に乗せておくれ。

さあ男とも別れだ泣かないぞ!
しっかりしっかり旗を振ってくれ
貧乏な女王様のお帰りだ。
[#ここで字下げ終わり]

 外は真暗闇だ。切れては走る窓の風景に、私は目も鼻も口も硝子《ガラス》窓に押しつけて、塩辛い干物のように張りついて泣いていた。

 私は、これからいったい何処《どこ》へ行こうとしているのかしら……駅々の物売りの声を聞くたびに、おびえた心で私は目を開けている。ああ生きる事がこんなにむずかしいものならば、いっそ乞食にでもなって、いろんな土地土地を流浪して歩いたら面白いだろうと思う。子供らしい空想にひたっては泣いたり笑ったり、おどけたり、ふと窓を見ると、これは又奇妙な私の百面相だ。ああこんなに面白い生き方もあったのかと、私は固いクッションの上に坐りなおすと、飽きる事もなく、なつかしくいじらしい自分の百面相に凝視《みい》ってしまった。

        *

(五月×日)
[#ここから2字下げ]
私はお釈迦様に恋をしました
仄《ほの》かに冷たい唇に接吻すれば
おおもったいない程の
痺《しび》れ心になりまする。

もったいなさに
なだらかな血潮が
逆流しまする。

心憎いまでに落ちつきはらった
その男振りに
すっかり私の魂はつられてしまいました。

お釈迦様!
あんまりつれないではござりませぬか
蜂《はち》の巣のようにこわれた

私の心臓の中に
お釈迦様
ナムアミダブツの無常を悟すのが
能でもありますまいに
その男振りで
炎のような私の胸に
飛びこんで下さりませ
俗世に汚れた
この女の首を
死ぬ程抱きしめて下さりませ
ナムアミダブツのお釈迦様!
[#ここで字下げ終わり]

 妙に侘しい日だ。気の狂いそうな日だ。天気のせいかも知れない。朝から、降りどおしだった雨が、夜になると風をまじえて、身も心も、突きさしそうに実によく降っている。こんな詩を書いて、壁に張りつけてみたものの私の心はすこしも愉しくはない。
 ――スグコイカネイルカ
 蒼《あお》ぶくれのした電報用紙が、ヒラヒラと私の頭に浮かんで来るのは妙だ。
 馬鹿、馬鹿、馬鹿、馬鹿を千も万も叫びたいほど、いまは切ない私である。高松の宿屋で、あのひとの電報を本当に受取った私は、嬉し涙を流していた。そうして、はち切れそうな土産物を抱いて、いま、この田端の家へ帰って来たはずだのに――。半月もたたないうちに又別居だとはどうした事なのだろう。私は男に二カ月分の間代を払ってもらうと、体《てい》のいい居残りのままだったし、男は金魚のように尾をヒラヒラさせて、本郷の下宿に越して行ってしまった。昨日も出来上った洗濯物を一ぱい抱えて、私はまるで恋人に会いにでも行くようにいそいそと男の下宿の広い梯子段を上って行ったのだ。ああ私はその時から、飛行船が欲しくなりました。灯のつき始めたすがすがしい部屋に、私の胸に泣きすがったあのひとが、桃割れに結ったあの女優とたった二人で、魚の様にもつれあっているのを見たのです。暗い廊下に出て、私は眼にいっぱい涙をためていました。顔いっぱいが、いいえ体いっぱいが、針金でつくった人形みたいに固くなってしまって、切なかったけれども……。
「やあ……」私は子供のように天真に哄笑《こうしょう》して、切ない眼を、始終机の足の方に向けていた。あれから今日へ掛けての私は、もう無茶苦茶な世界へのかけ足だ。「十五銭で接吻しておくれよ!」と、酒場で駄々をこねたのも胸に残っている。
 男と云う男はみんなくだらないじゃあないの! 蹴散《けち》らして、踏みたくってやりたい怒りに燃えて、ウイスキーも日本酒もちゃんぽんに呑み散らした私の情けない姿が、こうしていまは静かに雨の音を聞きながら床の中にじっとしている。今頃は、風でいっぱいふくらんだ蚊帳の中で、あのひとは女優の首を抱えていることだろう……そんな事を思うと、私は飛行船にでも乗って、バクレツダンでも投げてやりたい気持ちなのです。
 私は宿酔《ふつかよ》いと空腹で、ヒョロヒョロしている体を立たせて、ありったけの米を土釜に入れて井戸端に出て行った。階下の人達は皆風呂に出ていたので私はきがね[#「きがね」に傍点]もなく、大きい音をたてて米をサクサク洗ってみたのです。雨に濡れながら、只一筋
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