が……」
私はそんな真黒いおからのおかずなんかどうでもいいのだ。黙って寝転んで、袖の中へすっぽりと頭も顔もつっこんでいると、母は急に鼻を荒くすすりながら、わし達が邪魔なら、今夜にでも荷造りをして帰ると云い始めた。木綿裏の袂の中に秋の匂いがする。おおこの匂い。季節の匂い、慰めの匂い。袂の中で眼を開けると、真岡絣《もうかがすり》の四角い模様が灯に透いてみえる。お前はお父さんをどうして好かんとじゃろか? と母が泣きながら云う。あンたよりも二十歳も若い男をお父さんなぞと云わせないでよとはんぱくする。母は呻《うな》ってつっぷしてしまう。お前じゃとてなりゆき[#「なりゆき」に傍点]と云うものがあろうがの……。男運が悪いのはお前も同じことじゃないかのと云う。
「お前は八つの時から、あの義父さんに養育されたンじゃ。十二年も世話になって、いまさらお父さんはきらいとは云えんとよ」
「いいや、私はそだてられちゃいないッ」
「女学校にも上がっつろがや……」
「女学校? 何を云うとるンな、学校は、私が帆布の工場に行きながら行ったンを忘れんさったか。夏休みには女中奉公にも出たり、行商にも出たりして、私は自分で自分の事はかせいだンよ。学校を出てからも、少しずつでも送っとるのは忘れてしもうたンかな?」
云わでもの事を、私は袂の中で呶鳴《どな》る。
「お前はむごい子じゃのう……」
「ああ、もう、こう、ごたごたするンじゃ、親子の縁を切って、あんたはお義父さんと何処へでも行きなさいッ。私は、明日からインバイでも何でもして自分のことは自分で始末つけるもン」
袂の中で涙が噴きあげる。父の下駄の音がしたので、私はぷいと裏口から川添の町を歩く。白い乳色のもやが立ちこめて、畑のあっちこっちにちらちらと人家の灯がまたたく。川添町と云ったところで、東京もここは郊外の郊外、大根畑の土の匂いが香ばしく匂う。
何処へ行くと云うあて[#「あて」に傍点]もない。
東中野のボックスのような小さい駅へ出て、釣り堀の藪《やぶ》の道の方へ歩く。駅前の大きな酒屋だけが明るい燈火を夜霧の中に反射している。星がちかちかとまばたいている。辛抱強く。何事も辛抱強くだ。いざという時には、甲府行きの汽車にひかれて死ぬ事も賑やかな甘酢っぱい空想。だが、神様、いまのところはこのままでは死にきれぬ。
(十一月×日)
豪雨。土肌を洗い流す程の大雨なり。尻からげになって会社へ行く。池田さんは、紺飛白のビロード襟《えり》のかかった雨ゴートを着て来る。仲々意気な雨ゴートなり。今日は弁当なし。昼は雨の中を、六本木まで出て、そば屋でそばを食べて、ふんだんにそばづゆを貰って飲む。どろりとしたそばづゆに、唐辛子を浮かしてすする。
六本木の古本屋で、大杉栄の獄中記と、正木不如丘《まさきふじょきゅう》編輯《へんしゅう》の四谷文学という古雑誌と、藤村の浅草だよりという感想集三冊を八十銭で求める。獄中記はもうぼろぼろなり。
富田さん、麻布《あざぶ》のえち十と云う寄席へ行かないかとみんなを誘うけれど、私は雨なので断って早く家に帰る。沛然《はいぜん》とした雨が終日つづく。この雨があがれば、いよいよ冬の季節にはいるのであろう。足袋を洗い、火鉢にかざしてあぶる。義父も母も雨音をきいてつくねんとしている。
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左右いずれとも決しがたき宿命
悲劇は只の笑い話なり
御返事を待つまでもなく
只今は響々の雨
雨量は桝《ます》ではかりがたく
ただ手をつかねてなりゆき[#「なりゆき」に傍点]を見るのみ。
犠牲は払っているわけではない
不可能の冬の薔薇
孤独と神秘を頼みとする貧乏暮し
人は革命の書をつくり
私はあははと笑う
只、何事もおかしいのだ
真面目に苦しむ事の出来ぬ性分。
自分の運命を切りひらけと云われたところで
運命は食パンではないのです。
どこからナイフをあててよいのか
人生の狩猟は力のかぎり盛大に
鼻うごめかし
涙をすすり
つばを飲み
脚をふんばりだ。
秩序の目標は青《ブルウ》と黒《ブラック》
仮説の中でひっそりと鼠を食う
その霊妙なる味と芳香
ああロマンスの仮説
誰にも黙殺されて自分の生血をすする
少しずつ少しずつの塩辛い血。
革命とは水っぽい艶々の羊かん
かんてん かんてん かんてんの泥
人間一人が孤独で戦う
群勢はいりません
家柄やお国柄では飯は食えぬ。
[#ここで字下げ終わり]
講談を書こうと思い始める。漱石調で水戸黄門。藤村調で唐犬ゴンベエ。鴎外調で佐倉ソウゴロ。はっしはっしと切り結ぶと云う陰惨ごとはどうにも性分にはあわないながら、売りものには花をそえて、変転自在でなければならぬ。芥川の影燈籠《かげどうろう》も一つの魅力なり。
今夜からは、寒いので、親子三人どうしても一つの寝床にはいらね
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