ップシャツの上に毛糸の腹巻きをしている風采《ふうさい》がどうもいやらしい。金もないくせに敷島をぷかぷかふかしていた。
 東京は景気はどうかの。東京は不景気です。俺も今度こそ、何とかしようとは思うンじゃが、うまくゆかん……。
 あんまり暑いので、母と夜更けの浜へ涼みに行き、多度津《たどつ》通いの大阪商船の発着所の、石段のところで暫く涼む。露店で氷まんじゅうや、冷し飴を売っている。暑いので腰巻一つで、海水へはいる。浮きあがる腰巻きのはじに青い燐《りん》がぴかぴか光る。思い切って重たい水の中へすっとおよいでみる。胸が締めつけられるようでいい気持ちだ。
 暗い水の上に、小舟が蚊帳を吊って、ランプをとぼしているのが如何《いか》にも涼しそうだ。雨あがりのせいか、海辺はひっそりしている。
 千光寺の灯が、山の上で木立の中にちらちらゆれて光っている。

(八月×日)
 風琴と魚の町少しはかどる。
 小説と云うものはどんな風に書くものかは知らない。只、だらだらと愚にもつかぬ事をノートに書きながら自分で泣いているのだからいやらしくなって来る。蚊が多いので夜は一切書けない。第一、小説と云うものを書く感情は存在していないのだ。すぐ詩のようなうたいかたになってしまう。物事を解剖してゆく力がない。愍《あわれ》むがよい。只、それきりだ。観察が甘く、まるで童話的だ。
 東京へ帰るには、二十円も工面しなければならぬと云う事が頭にちらつく。人よりに非ず、人に由《よ》るに非ず、イエス・キリスト及びこれを死人の中より甦《よみが》えらせ給いし父なる神に由りて使徒となれるパウロ。小説を書く筆者の琴線がたかなることなくしては、神は人のうわべをとり給わずである。自分にそのような才能があるとは思えない。書いても、書いても突き戻されていることに赤面しないあつかましさ。しりめつれつな心理の底をくぐる。小さい魚の影を追うようなものだ。まことしやかに活字が並ぶ。血へどを吐いたものはみるにも読むにもたえぬ。警察の眼も光る。無政府主義とは唄ではないのだ。それを願う願いは、この世の何処かにあるのだけれども……。お伽《とぎ》の世界をねらう平和な獣だけの理想の天地。宮様がお通りになるからと云って、一日じゅう障子を閉ざして息を殺していなければならぬ私は階級なのだ。そして、宮様は一瞬にして雲の彼方《かなた》に消えてゆく人である。どうして、そのような人を尊敬しなければ生きてゆけないのだろう。
 警備の巡査も生きている。肩にとまったトンボも生きている。障子の中には、無作法なはだかで、チエホフをぶらさげている女が立っている。
 尾道へ戻った事を後悔する。
 ふるさとは遠くにありて想うものなり。たとい異土《いど》の乞食《かたい》となろうともふるさとは再び帰り来る処に非ずの感を深くするなり。
 死にたくもなし、生きたくもなしの無為徒然の気持ちで、今日もノートに風琴と魚の町のつづきを書く。
 母も、もう一度、東京へ出て夜店を出したいと云う。義父と別れてさえくれれば、私はどんなに助かるだろうと思うけれども、母はこれもなりゆきの事故、いましばらく辛抱しなさいと云う。義父はまた今朝からばくちに出掛けてゆく。母だけが、躯をすりへらしてこっぱみじんの働きぶりなり。
 只、母も私も、長い苦痛の連続のみにすがって生きているようなものなり。せめて、私が男に生れていたならばと思う。母の働いた金はみんな父のばくちのもとでに消えてしまう。
 夜は母と二人で、夜の浜辺へ出て、露店でうどんを食べて済ませる。家にいると借金取りがうるさいと云うので、また、暗い海水浴。
 海水は汚れてどろどろ、葬式の匂いがする。そのうち、ええこともあろうぞ……母がふっとそんな事を云う。私はさんばし[#「さんばし」に傍点]の方までおよぐ。燐が燃える。向島のドックで、人の呼んでいる声がしている。こんなことでは、何の運命もない、風琴と魚の町の原稿を東京へ持って行ったところで、ぱっと華咲くようないい日が来るとは信じられぬ。いまひといき、いまひといきと暗い冷い水の方へおよいで行く。
 やがて、石段に戻って、素肌にぬるい着物を着る。濡れたものをしぼっていると、うどんのげっぷが出て来る。肌がぴいんと斂《しま》って来た気がする。自然な温かい気持ちになり、モウレツに激しい恋をしてみたくなる。いろんな記憶の底に、男の思い出がちらちらとする。
 家へ戻ると、階下はみんな出掛けて留守。階下のおばさんも、このごろは昆布巻きの内職をなまけて遊び歩いているとの事なり。
 荒破屋《あばらや》同然の二階。裸電気の下で、母と私ははだかになって涼む。燈火の賑やかな上り列車が走って行く。羨《うらや》ましい。
 どうしても東京へ行きたいのだけれども、いまがいま、二十円の金つくりは出来かねると母はし
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