いたくせに、そうして、たった十円ばかりの金を貸して、もう馴々しく、人に葱を刻ませようとしている。こんな人間に図々しくされると一番たまらない……。遠くで餅をつく勇ましい音が聞えている。私は沈黙ってポリポリ大根の塩漬を噛んでいたけれど、台所の方でも侘しそうに、コツコツ葱を刻み出しているようだった。「ああ刻んであげましょう。」沈黙っているにはしのびない悲しさで、障子を開けて、私は松田さんの庖丁《ほうちょう》を取った。
「昨夜はありがとう、五円を小母さんに払って、五円残ってますから、五円お返ししときますわ。」
 松田さんは沈黙って竹の皮から滴るように紅い肉片を取って鍋に入れていた。ふと見上げた歪んだ松田さんの顔に、小さい涙が一滴光っている。奥では弄花《はな》が始まったのか、小母さんの、いつものヒステリー声がビンビン天井をつき抜けて行く。松田さんは沈黙ったまま米を磨《と》ぎ出した。
「アラ、御飯はまだ炊かなかったんですか。」
「ええ貴女が御飯を食べていらっしたから、肉を早く上げようと思って。」
 洋食皿に分けてもらった肉が、どんな思いで私ののどを通ったか。私は色んな人の姿を思い浮べた。そしてみんなくだらなく思えた。松田さんと結婚をしてもいいと思った。夕食のあと、初めて松田さんの部屋へ遊びに行ってみる。
 松田さんは新聞をひろげてゴソゴソさせながら、お正月の餅をそろえて笊へ入れていた。あんなにも、なごやかにくずれていた気持ちが、又前よりもさらに凄《すご》くキリリッと弓をはってしまい、私はそのまま部屋へ帰ってきた。
「寿司屋もつまらないし……」
 外は嵐が吹いている。キュウピーよ、早く鳩ポッポだ。吹き荒《す》さめ、吹き荒さめ、嵐よ吹雪よ。

        *

(四月×日)
 地球よパンパンとまっぷたつに割れてしまえと、呶鳴ったところで私は一匹の烏猫だ。世間様は横目で、お静かにお静かにとおっしゃっている。又いつもの淋しい朝の寝覚めなり。薄い壁に掛った、黒い洋傘《パラソル》をじっと見ていると、その洋傘が色んな形に見えて来る。今日もまたこの男は、ほがらかな桜の小道を、我々同志よなんて、若い女優と手を組んで、芝居のせりふを云いあいながら行く事であろう。私はじっと背中を向けてとなりに寝ている男の髪の毛を見ていた。ああこのまま蒲団の口が締って、出られないようにしたらどんなものだろう……。このひとにピストルを突きつけたら、この男は鼠のようにキリキリ舞いをしてしまうだろう。お前は高が芝居者じゃないか。インテリゲンチャのたいこもち[#「たいこもち」に傍点]になって、我々同志よもみっともないことである。私はもうあなたにはあいそ[#「あいそ」に傍点]がつきてしまいました。あなたのその黒い鞄《かばん》には、二千円の貯金帳と、恋文が出たがって、両手を差し出していましたよ。
「俺はもうじき食えなくなる。誰かの一座にでもはいればいいけれど……俺には俺の節操があるし。」
 私は男にはとても甘い女です。
 そんな言葉を聞くと、さめざめと涙をこぼして、では街に出て働いてみましょうかと云ってみるのだ。そして私はこの四五日、働く家をみつけに出掛けては、魚の腸《はらわた》のように疲れて帰って来ていたのに……この嘘つき男メ! 私はいつもあなたが用心をして鍵《かぎ》を掛けているその鞄を、昨夜そっと覗《のぞ》いてみたのですよ。二千円の金額は、あなたが我々プロレタリアと言っているほど少くもないではありませんか。私はあんなに美しい涙を流したのが莫迦《ばか》らしくなっていた。二千円と、若い女優があれば、私だったら当分は長生きが出来る。
(ああ浮世は辛うござりまする。)
 こうして寝ているところは円満な御夫婦である。冷たい接吻はまっぴらなのよ。あなたの体臭は、七年も連れそった女房や、若い女優の匂いでいっぱいだ。あなたはそんな女の情慾を抱いて、お勤めに私の首に手を巻いている。
 ああ淫売婦にでもなった方がどんなにか気づかれがなくて、どんなにいいか知れやしない。私は飛びおきると男の枕を蹴《け》ってやった。嘘つきメ! 男は炭団《たどん》のようにコナゴナに崩れていった。ランマンと花の咲き乱れた四月の明るい空よ、地球の外には、颯々《さつさつ》として熱風が吹きこぼれて、オーイオーイと見えないよび声が四月の空に弾《はじ》けている。飛び出してお出でよッ! 誰も知らない処《ところ》で働きましょう。茫々とした霞《かすみ》の中に私は神様の手を見た。真黒い神様の腕を見た。

(四月×日)
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一度はきやすめ二度は嘘
三度のよもやにひかされて……
憎らしい私の煩悩《ぼんのう》よ、私は女でございました。やっぱり切ない涙にくれまする。

鶏の生胆《いきぎも》に
花火が散って夜が来た
東西! 東西!

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