れなのよ、ねえ、塗り薬でかためて調法であろう……。苦悩を売りものにしてみたところで、もともと偽の文明。第一イルミネーションの光りの方がむじひ[#「むじひ」に傍点]だ。皮を剥《は》いだ、底の底まで見透せる妙な光りかたである。美人が少しも美人にはみえない。光りの空、息苦しい光彩の波の中に、人はひしめきあっている。私もひしめきあっている。
なるほど、日本は黄金島!
*
(七月×日)
山のように厚いノートはないものか、枕のようにでっかいノート。
頭のなかにたまっている、何もかも、きっちり挾《はさ》んで逃げないようにしておきたい。
オカアサマ、私生児はへこたれませんよ。もうめんどうなことは考えないでいましょう。どんなに家柄がいいと云ったところで落ちぶれてどろどろになる貴族もいます。貴族とは紋のような紋。あおいの紋は立派だそうだけれど、私はやっぱり菊や桐の紋が好きです。
私は折れた鉛筆のようにごろりと眠る。
世の中はいろんなもので賑やかだ。
十二社《じゅうにそう》の鉛筆工場の水車の音が、ごっとんごっとん耳に響く。爽やかな風が吹いているのに私は畳に寝ころんでいる。只、呆んやりと哀しくなるばかり。本当はちっとも死にたくはないのに、私はあのひとに、死ぬかもしれないと云う手紙を書きたくなった。
少しも死にたくはないのに、死にたいと思うこともある。空想が象のようにふくらんで来る。象が水ぶくれになってよたよたと這《は》いまわって来る。
何処かで鮭《さけ》を焼く匂いがしている。
あのひとが走って来てくれるような、長い手紙を書きたかったけれど、紙もインクもない。新宿の甲州屋の陳列のなかの万年筆が、電信柱のようににゅっと眼に浮ぶ。二円五十銭だったかな。紙はつるつるしたのが自由自在だけれど、こちらは素かんぴん。ああどうよく[#「どうよく」に傍点]ではござりませぬか。
森々とよく蝉《せみ》が啼《な》きたてている。
部屋の中を見まわしてみる。かび臭い。床の間もなければ、棚も押入もない。この暑いのに、オッカサンはまだネルの着物を着ている。洗いざらしたネルの着物で、ことことさっきからキャベツを刻んでいる。部屋の隅に板切を置いて、まことにきれいな姿なり。
私たちはキャベツばっかり食べている。ソースをかけて肉なしのキャベツをたべる。それはねえ、ただ、まぼろしの料理。夢のなかの出来事さ。粉挽《こなひき》も見た事がない。魚はもちろん、魚屋の前は眼をつぶって、息を殺して通る。あいなめに、鯛に、さばに、いさき、かつおの紳士。――フランセ・ママイといってね、時々私の処《ところ》へ夜噺《よばな》しに来る笛吹きの爺さんが、ああドーデーと云う方は金に困らぬ小説家なのであろう。風車小屋だよりは、ぜいたく至極な物語りで、十二社の汚ない風車|小舎《ごや》とはだいぶおもむきが違うのであろう。俳句でもつくってみたくなるけれど、どうも、川柳もどきになってしまう。風に吹かれただけで俳句がつくりたくなる。蝉の声をきいただけで、ああと溜息《ためいき》まじり。
さあ、そろそろ時間が来ました。
神楽坂《かぐらざか》に夜店を出しに行く。藁店の床屋さんから雨戸を借りて、鯛焼き屋の横に店をひろげる。
(七月×日)
朝から雨。
仕方がないからオッカサンと風呂に行く。着物をぬぐと私は元気になって来る。富士山のペンキ絵がべろんと幕を張ったよう。松が四五本あって、その横に花王せっけんの広告。
おなかの大きい不器量なおかみさんが一人、鏡の前で鼻唄をうたっている。どうして、あんなにむやみにおなかがふくれるのか私にはわからない。どうしたはずみ[#「はずみ」に傍点]で、あんなおなかになるのだろう。それでも、見ているととても愛らしい。何度も、まあるいおなかに湯をかけている。
窓の外を誰か口笛をふいて通っている。養父さんは北海道へ行ってそれっきり。仲々思わしい仕事もないのであろう。私も口笛を吹いてみる。
ああ、そはかのひとか、うたげのなかに、女学校時代のことがふっとなつかしく頭に浮んで来る。宝塚の歌劇学校へ行ってみたいと思った事もあった。田舎まわりの役者になりたいと思った事もあった。初恋のひとは、同級の看護婦といっしょになってしまった。
ここから尾道は何百里も遠い。まるで、虫けらみたいな生きかただ。東京には、いっぱい、いい事があると思ったけれど何もない。
裸になっている時が一等しあわせだ。
オッカサンは流しの隅っこで円くなって洗濯をしている。私は風呂の中であごまでつかって口笛を吹く。知っているうたをみんな吹いてみる。しまいには出たら目な節で吹く。出たら目な節の方がよっぽど感じが出て、しみじみと哀しくなって来る。昨夜読んだ、ユジン・オニイルの「長いかえりの船路」の中の
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