人達故に。――私はまた七年前にひそやかながら現在の夫と結婚をしている。義父にはまだ母親がいるし、私から云えば義理の祖母なのだけれども、この祖母の持論は、「お前のお母さんの為めに、私の息子が二十年間も子供もなく、男の一生が代《だい》なしになってしまった。」と云うのであった。だから、結局は恩と云うものを忘れてくれるなと云う事なのだろうけれども、この祖母には月々わずかながら隠居費と云うものも私は送っている。妙に私と云うものが固く皆にたよられているのです。やりきれないとは思いながら、私は自分に出来る間はとも考えて弱くなっています。けれど、私の仕事はマッチ箱を貼《は》るのやミシンの内職とも違うし、机の前に坐ってさえおれば原稿が金にでもなるようにも思っているらしい家族達に、私のいまの気持ちを正直に云ったところでどうにも始まった事でもないだろうと思います。いっそ、ミシンのペタルでも押して内職した方が楽しみかも知れないのだけれど……。長い間不幸な境遇にあった人達であっただけに、私はこの人達を愛してゆこうと思いました。そうして愛していました。だけど、一旦この小家族の中で波がおきると、母は父の方へよりそって行ってしまって、私はまるであってもなくてもいい存在になってしまう。思いあうよりもまず憎みあう気持ちを淋しく考えます。頭が痛いと云えば薬を飲めばなおってしまうと思っている人達である。
朝起きて、小さな女中を相手に食膳をととのえ、昼は昼、夜は夜の食事から、米味噌の気づかい、自分の部屋の掃除、洗濯、来客、仲々私の生活も忙がしい。その間に自分のものも書いて行かなければならないのです。自分の作品の批評についても、私は仲々気にかかるし、反省もし、勉強も続けてはいるけれども、時々空虚なものが私を噛みます。梅雨時はとくにうっとうしいせいか、思いきりよく果ててしまいたい気も時にするときがあります。このまま消えてしまったならばせいせいするだろうと云った気持ちが切なのです。だけど、私がいなくなってしまえば、凧《たこ》の糸が切れたように、家族の者達がキリキリ舞いをしてしまう事を考え始めるとそれも出来ないような思いである。目標を定めたいと思って、頃日《けいじつ》禅と云うものをやりだしたのだけれども、まだそれも未詳の境地で、自分だけのほんとうの悟りを開くには仲々前途はるかなものがあります。この頃の心のやりばにして、私はウォルター・ペイターを読んでいます。「ウォルター・ペイターは少数の中の特異な芸術家で、我々は彼の生活の中に芸術に対する芸術家の生活の極度の謙譲の例を見出す。彼の生活は、あたかも多量の潮を容《い》れるために平かになった満潮時の海のように心の経験が深くなればなる程かえって静まった。」と云う一節があったけれども、心の経験がペイターの日蔭であるならば、ペイターも案外ロマンチストに違いない。だが、そんなところが魅力なのか、ペイター研究は仲々愉しい。ペイターは、また美しく大きな仕事を残して早世した人達を愛し同情していたと云う事でもあるけれど、それにはひどく同感だ。
何の雑誌であったか、最近松井須磨子の写真を見ました。実に美しかった。精練の美がにじみ出ていた。このひとの老いた顔を、この写真から想像する事は出来ない。霜のように烈々とした美しい写真であった。天才肌のこの様な女の死はひどく勿体《もったい》なさを感じるけれど、仲々|悧巧《りこう》なひとであったとも考えられる。とくにこのひとが女優であるが故に。――私は、松井須磨子のような美貌も持っていなければ、まして天才でもないのだ。だけど、私は、何かしら老いて行く事をひどく恐れはじめています。肉体のおとろえもさる事ながら、作品の上のおとろえはこれは敗惨と云うにはあまりに辛すぎる気持ちでしょう。
私はまた一面には台所をたいへん愛しています。家族の者達を愛していることは勿論《もちろん》。そうして自らこの中で安心して老い朽ちて行く自分を私は瞼をとじて観念しているのだ。
「お前の仕事なぞ大したもンじゃないじゃないか。」言葉の行きがかりで夫の口から時にこの様なことも聞くけれど、あんまり当り過ぎている事を、あまり身近な人間からきかされるので、痛いと云うよりも冷汗が出る思いでした。私の仕事と云えば、色々な夾雑物《きょうざつぶつ》ばかりのもので、本当はこれとして澄んだものが一つもない。実際ここまでは来たけれど、ここから道が切れてしまった感じなのです。
過去に、私はまた一つの恋愛を持っていたこともあるけれど、これにはプレイトニズムではないけれど、私の芸術の中に、「恋をするものの密《ひそ》かな気息であり、天上の星の音楽である。」と云う言葉のようなものがありました。実に一瞬ではあったけれど、私の絶々《たえだえ》な気持ちによく笞《むち》打ってく
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