、二人で蒲団にはいっていると、平和な気持ちになってくる。いいものを書きましょう、努力しましょう……。

(二月×日)
 朝六枚ばかりの短篇を書きあげる。この六枚ばかりのものを持って、雑誌社をまわることは憂鬱になって来た。十子は食パンを一斤買って来てくれる。古新聞を焚いて茶をわかしていると、暗澹《あんたん》とした気持ちになってきて、一切合切が、うたかたの泡《あわ》より儚《はか》なく、めんどくさく思えて来る。
「私、つくづく家でも持って落ちつきたくなったのよ、風呂敷一ツさげて、あっちこっち、カフエーやバーをめがけて歩くのは心細くなって来たの……」
「私、家なんかちっとも持ちたくなんぞならないわ。このまま煙のように呆っと消えられるものなら、その方がずっといい。」
「つまらないわね。」
「いっそ、世界中の人間が、一日に二時間だけ働くようになればいいとおもうわ、あとは野や山に裸で踊れるじゃないの、生活とは? なんて、めんどくさい事考えなくてもいいのにね。」
 階下より部屋代をさいそくされる。カフエー時代に、私に安ものの、ヴァニティケースをくれた男があったけれど、あの男にでも金をかりようかしらと思う。
「あああの人? あの人ならいいわ、ゆみちゃんに参っていたんだから……」
 ハガキを出してみる、神様! こんな事が悪い事だとお叱り下さいますな。

(二月×日)
 思いあまって、夜、森川町の秋声《しゅうせい》氏のお宅に行ってみた。国へ帰るのだと嘘を言って金を借りるより仕方がない。自分の原稿なんか、頼む事はあんまりはずかしい気持ちがするし、レモンを輪切りにしたような電気ストーヴが赤く愉しく燃えていて、部屋の中の暖かさは、私の心と五百里位は離れている。犀《さい》と云う雑誌の同人だと云う、若い青年がはいって来た。名前を紹介されたけれども、秋声氏の声が小さかったので聞きとれなかった。金の話も結局駄目になって、後で這入って来た順子さんの華やかな笑い声に押されて、青年と私と秋声氏と順子さんと四人は戸外に散歩に出て行った。
「ね、先生! おしるこでも食べましょうよ。」
 順子さんが夜会巻き風な髪に手をかざして、秋声氏の細い肩に凭《もた》れて歩いている。私の心は鎖につながれた犬のような感じがしないでもなかったけれど、非常に腹がすいていたし、甘いものへの私の食慾はあさましく犬の感じにまでおちこんでしまっていたのだ。誰かに甘えて、私もおしる粉を一緒に食べる人をさがしたいものだ。四人は、燕楽軒《えんらくけん》の横の坂をおりて、梅園と云う待合のようなおしる粉屋へはいる。黒い卓子について、つまみのしそ[#「しそ」に傍点]の実を噛んでいると、ああ腹いっぱいに茶づけが食べてみたいと思った。しる粉屋を出ると、青年と別れて私達三人は、小石川の紅梅亭と云う寄席《よせ》に行った。賀々寿々《かがすず》の新内と、三好《さんこう》の酔っぱらいに一寸《ちょっと》涙ぐましくなっていい気持ちであった。少しばかりの金があれば、こんなにも楽しい思いが出来るのだ。まさか紳士と淑女に連れそって来た私が、お茶づけを腹いっぱい食いたい事にお伽噺《とぎばなし》のような空想を抱いていると、いったい誰が思っているだろう。順子さんは寄席も退屈したと云う。三人は細かな雨の降る肴町《さかなまち》の裏通りを歩いていた。
「ね、先生! 私こんどの女性の小説の題をなんてつけましょう? 考えて見て頂戴な。流れるままには少しチンプだから……」
 順子さんがこんな事を云った。団子坂のエビスで紅茶を呑んでいると、順子さんは、寒いから、何か寄鍋《よせなべ》でもつつきたいと云う。
「あなた、どこか美味いところ知ってらっしゃる?」
 秋声氏は子供のように目をしばしばさせて、そうねとおっしゃったきりだった。やがて、私は、お二人に別れた。二人に別れて、やがて小糠雨《こぬかあめ》を羽織に浴びながら、団子坂の文房具屋で原稿用紙を一|帖《じょう》買ってかえる。――八銭也――体中の汚れた息を吐き出しながら、まるで尾を振る犬みたいな女だったと、私は私を大声あげて嘲笑《あざわら》ってやりたかった。帰ったら部屋の火鉢に、切り炭が弾《はじ》けていて、カレーの匂いがぐつぐつ泡《あわ》をふいていた。見知らない赤いメリンスの風呂敷包みが部屋の隅に転がっていて、新らしい蛇の目の傘がしっとりと濡れたまま縁側に立てかけてあった。隣室では又今夜も秋刀魚《さんま》だ。十ちゃんの羽織を壁にかけていると、十ちゃんが笑いながら梯子《はしご》段を上って来て、「お芳ちゃんがたずねて来てね、二人でいま風呂へ行ったのよ。」と云った。皆カフエーの友達である。この女はどこか、英《はなぶさ》百合子に似ていて、肌の美しい女だった。「十ちゃんも出てしまうし、面白くないから出て来ちゃったわ、二日
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