都新聞に別れた男への私の詩が載っている。もうこんな詩なんか止《や》めましょう。くだらない。もっと勉強して立派な詩を書こうと思う。夕方から銀座の松月と云うカフエーへ行った。ドンの詩の展覧会がここであるからだ。私の下手な字が麗々しく先頭をかざっている。橋爪氏に会う。

(六月×日)
 雨が細かな音をたてて降っている。

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陽春二三月  楊柳斉作[#レ]花
春風一夜入[#二]閨闥[#一] 楊花飄蕩落[#二]南家[#一]
含[#レ]情出[#レ]戸脚無[#レ]力 拾[#二]得楊花[#一]涙沾[#レ]臆
秋去春来双燕子 願銜[#二]楊花[#一]入 ※[#「穴かんむり/樔のつくり」、第4水準2−83−21]裏[#一]
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 灯の下に横坐りになりながら、白花を恋した霊太后《れいたいごう》の詩を読んでいると、つくづく旅が恋しくなってきた。五十里さんは引っ越して来てからいつも帰りは夜更けの一時過ぎなり。階下の人は勤め人なので九時頃には寝てしまう。時々田端の駅を通過する電車や汽車の音が汐鳴りのように聞えるだけで、この辺は山住いのような静かさだった。つくづく一人が淋しくなった。楊白花のように美しいひとが欲しくなった。本を伏せていると、焦々《いらいら》して来て私は階下に降りて行くのだ。
「今頃どこへゆくの?」階下の小母さんは裁縫の手を休めて私を見ている。
「割引なのよ。」
「元気がいいのね……」
 蛇の目の傘を拡げると、動坂の活動小屋に行ってみた。看板はヤングラジャと云うのである。私は割引のヤングラジャに恋心を感じた。太湖船の東洋的なオーケストラも雨の降る日だったので嬉しかった。だけど所詮《しょせん》はどこへ行っても淋しい一人身なり。小屋が閉まると、私は又|溝鼠《どぶねずみ》のように部屋へ帰って来る。「誰かお客さんのようでしたが……」小母さんの寝ぼけた声を背中に、疲れて上って来ると、吉田さんが紙を円めながらポッケットへ入れている処だった。
「おそく上って済みません。」
「いいえ、私活動へ行って来たのよ。」
「あんまりおそいんで、置手紙をしてたとこなんです。」
 別に話もない赤の他人なのだけれど、吉田さんは私に甘えてこようとしている。鴨居《かもい》につかえそうに背の高い吉田さんを見ていると、私は何か圧されそうなものを感じている。
「随分雨が降るのね
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