にはけて行く白い水の手ざわりを一人で楽しんでいる。

(六月×日)
 朝。
 ほがらかな、よいお天気なり。雨戸を繰ると白い蝶々が雪のように群れていて、男性的な季節の匂いが私を驚かす。雲があんなに、白や青い色をして流れている。ほんとにいい仕事をしなくちゃいけないと思う。火鉢にいっぱい散らかっていた煙草の吸殻を捨てると、屋根裏の女の一人住いも仲々いいものだと思った。朦朧《もうろう》とした気持ちも、この朝の青々とした新鮮な空気を吸うと、ほんとうに元気になって来る。だけど楽しみの郵便が、質屋の流れを知らせて来たのにはうんざりしてしまった。四円四十銭の利子なんか抹殺《まっさつ》してしまえだ。私は縞の着物に黄いろい帯を締めると、日傘を廻して幸福な娘のような姿で街へ出てみた。例の通り古本屋への日参だ。
「小父さん、今日は少し高く買って頂戴ね。少し遠くまで行くんだから……」この動坂の古本屋の爺さんは、いつものように人のいい笑顔を皺《しわ》の中に隠して、私の出した本を、そっと両の手でかかえて見ている。
「一番今|流行《はや》る本なの、じき売れてよ。」
「へえ……スチルネルの自我経ですか、一円で戴きましょう。」
 私は二枚の五十銭銀貨を手のひらに載せると、両方の袂《たもと》に一ツずつそれを入れて、まぶしい外に出た。そしていつものように飯屋へ行った。
 本当にいつになったら、世間のひとのように、こぢんまりした食卓をかこんで、呑気《のんき》に御飯が食べられる身分になるのかしらと思う。一ツ二ツの童話位では満足に食ってはゆけないし、と云ってカフエーなんかで働く事は、よれよれに荒《すさ》んで来るようだし、男に食わせてもらう事は切ないし、やっぱり本を売っては、瞬間瞬間《そのときどき》の私でしかないのであろう。夕方風呂から帰って爪をきっていたら、画学生の吉田さんが一人で遊びにやって来た。写生に行ったんだと云って、十号の風景画をさげて、絵の具の匂いをぷんぷんただよわせている。詩人の相川さんの紹介で知ったきりで、別に好きでも嫌いでもなかったけれど、一度、二度、三度と来るのが重なると、一寸《ちょっと》重荷のような気がしないでもない。紫色のシェードの下に、疲れたと云って寝ころんでいた吉田さんは、ころりと起きあがると、

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瞼、瞼、薄ら瞑《つぶ》った瞼を突いて、
きゅっと抉《えぐ》って両
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