いのだ。昼頃から、線路の上を巡査が二人みまわっている。
 障子を閉めて、はだかで、チエホフの退屈な話を読む。あまり暑いので、梯子《はしご》段の板張りに寝転んで本を読む。風琴《ふうきん》と魚の町、ふっとこんな尾道の物語りを書いてみたくなる。
 母は掃除を済ませて、白い風呂敷包みの大きい荷物を背負って商売に出掛ける。
 階下のおばさんが、辛子のはいったところてんを一杯ごちそうしてくれる。そろそろ、宮さんがお通りじゃンすでエ……近所の女衆が叫んでいる。
 轟々《ごうごう》と地ひびきをたててお召列車が通る。障子の破れからのぞくと、窓さきの堤の上に巡査が列車に最敬礼をしている。巡査の肩に大きいトンボがとまっている。羽根が白く透けてふるえている。汽車の窓の中に白いカヴァがちらちらして、赧《あか》い顔の男が本を読んでいたのがすっと過ぎ去る。
 真実な一つのフイルムが、線路をすっとかき消えて行く。巡査が頭を挙げる。すばやく障子の破れから私は頭を引っこめる。
 忍耐づよい貧民。力が抜ける。それきりの為に、また固く障子を閉めておく。負担になってもにこにこ笑って土下座している。只、それきりの生き方。何の違いが、一瞬の宮様にあるのだろう……。宮様は涼しい汽車で本を読んでいる。私は暑い部屋の中で、チエホフの退屈な話を読んでいるだけだ。
 本箱の中に、古い私のノートあり。学生の頃の日記。大した事もなし。エルテルにのぼせあがっている感想。伊藤|白蓮《びゃくれん》のかけおち[#「かけおち」に傍点]をノラの如しと書いている。
 当分はこのままで必死に小説を書いてみようと思う。
 夕方より雨。母が、油紙を頭からかぶって戻って来る。手籠に、いちじくのはじけたのを土産に買って来てくれる。尾道では、いちじくの事をとうがき[#「とうがき」に傍点]と云うなり。
 義父帰らず。
 母は警察へあげられたのではないかと心配している。雨で涼しいのでノートに少しばかり小説めいたものを書きつけてみるけれども、すぐ厭になってしまう。大した事もないのだ。伊勢物語読了。
 ものを書いて暮すなぞと云う事はあきらめる方がいい。どうにもものにはならぬ。作曲家が耳のないのを忘れていて、音色を空想するだけ……。孤独に流されているだけでは、一字も言葉は生れて来ない。海辺の町へ戻って、まだ私は海を見ない。
 夜更けて義父が戻って来た。
 クレ
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