ないのに丁寧に笑って挨拶をする。その男は社へ行く道々も、詩集のようなものを読みながら歩いている。
 玄関の暗い土間のところに、壁に凭《もた》れてまた待つ用意をする。小さい女の子が出て来て、厭な眼つきをして私を見ては引っこむ。
「赤い靴」と云う原稿を拡げて、私はいつまでも同じ行を読んでいる。もう、これ以上手を加えるところもないのだけれども、何時までも壁を見て立っているわけにはゆかないのだ。
 ああ、やっぱり芝居をしようと思う。
 時計は十二時を打っている。二時間以上も待った。いろんな人の出入りに、邪魔にならぬように立っていることがつまらなくなって、戸外へ出る。何だって、あの男は冷酷無情なのかさっぱり判らない。無力なものをいじめるのが心持ちがいいのかも知れない。
 歩いて根津権現裏の萩原恭次郎のところへ行く。
 節ちゃんは洗濯。坊やが飛びついて来る。
 朝も昼も食べないので、躯《からだ》じゅうが空気が抜けたように力がない。坊やに押されると、すぐ尻餅をついてしまう。恭ちゃんのところも一銭もないのだと云う。恭ちゃんは前橋へ金策の由なり。
 銀座の滝山町まで歩く。昼夜銀行前の、時事新報社で出している、少年少女と云う雑誌は割合いいのだと聞いたので行ってみる。
 係の人は誰もいないので、原稿をあずけて戸外へ出る。四囲いちめん食慾をそそる匂いが渦をなしている。木村屋の店さきでは、出来たてのアンパンが陳列の硝子をぼおっとくもらせている。紫色のあんのはいった甘いパン、いったい、何処のどなたさまの胃袋を満すのだろう……。
 四丁目の通りには物々しくお巡りさんが幾人も立っている。誰か皇族さまのお通りだそうだ。皇族さまとはいったいどんな顔をしているのだろう。平民の顔よりも立派なのかな。ゆっくり歩いてカフエーライオンの前へ行く。ふっと見ると、往来ばたの天幕小屋に、広告受付所、都新聞と云うビラがさがって、そのそばに、小さく広告受付係の婦人募集と出ている。天幕の中には、卓子が一つに椅子が一つ。そばへ寄って行くと、中年の男のひとが、「広告ですか?」と云う。受付係に雇われたいのだと云うと、履歴書を出しなさいと云うので、履歴書の紙を買う金がないのだと云うと、その男のひとは、吃驚した顔で、「じゃア、これへ簡単に書いて下さい。明日から来てみて下さい」と親切に云ってくれた。ざらざらの用紙に鉛筆で履歴を書いて渡
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