どこへ行く当もない。正反対の電車に乗ってしまった私は、寒い上野にしょんぼり自分の影をふんで降りた。狂人じみた口入《くちいれ》屋の高い広告燈が、難破船の信号みたように風にゆれていた。
「お望みは……」
牛太郎《ぎゅうたろう》のような番頭にきかれて、まず私はかたずを呑んで、商品のような求人広告のビラを見上げた。
「辛い事をやるのも一生、楽な事をやるのも一生、姉さん良く考えた方がいいですよ。」
肩掛もしていない、このみすぼらしい女に、番頭は目を細めて値ぶみを始めたのか、ジロジロ私の様子を見ている。下谷《したや》の寿司屋の女中さんの口に紹介をたのむと、一円の手数料を五十銭にまけてもらって公園に行った。今にも雪の降って来そうな空模様なのに、ベンチの浮浪人達は、朗かな鼾声《いびき》をあげて眠っている。西郷さんの銅像も浪人戦争の遺物だ。貴方《あなた》と私は同じ郷里なのですよ。鹿児島が恋しいとはお思いになりませんか。霧島山が、桜島が、城山が、熱いお茶にカルカンの甘味《おい》しい頃ですね。
貴方も私も寒そうだ。
貴方も私も貧乏だ。
昼から工場に出る。生きるは辛し。
(十二月×日)
昨夜、机の引き出しに入れてあった松田さんの心づくし。払えばいいのだ、借りておこうかしら、弱き者よ汝《なんじ》の名は貧乏なり。
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家にかえる時間となるを
ただ一つ待つことにして
今日も働けり。
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啄木はこんなに楽しそうに家にかえる事を歌っているけれど、私は工場から帰ると棒のようにつっぱった足を二畳いっぱいに延ばして、大きなアクビをしているのだ。それがたった一つの楽しさなのだ。二寸ばかりのキュウピーを一つごまかして来て、茶碗の棚の上にのせて見る。私の描いた眼、私の描いた羽根、私が生んだキュウピーさん、冷飯に味噌汁をザクザクかけてかき込む淋しい夜食です。――松田さんが、妙に大きいセキをしながら窓の下を通ったとおもうと、台所からはいって来て声をかける。
「もう御飯ですか、少し待っていらっしゃい、いま肉を買って来たんですよ。」
松田さんも私と同じ自炊生活である。仲々しまった人らしい。石油コンロで、ジ……と肉を煮る匂いが、切なく口を濡らす。「済みませんが、この葱《ねぎ》切ってくれませんか。」昨夜、無断で人の部屋の机の引き出しを開けて、金包みを入れてお
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