て歌をうたい始めた。客は二人。二人ともインバネスを着た相当ないでたち。お信さんは時々レコードをかけながらするめをしゃぶっている。今夜は商売繁昌なので、やっと奥から火鉢が出る。
 勝美さんの客は、私にも酒を差してくれた。美味しくも何ともない。五六杯あける。少しも酔わない。年をとった眼鏡の男の方が、お前は十七かと尋ねる。笑いたくもないのに笑ってみせる。ここのところが自分でも何ともいやらしい。
 夕飯を八時頃食べる。いか[#「いか」に傍点]の煮つけを食べながら、あのひとはいまごろ、何を食べているのだろうかと哀れになって来る。欠点のない立派なひとにも考えられる。お互いの気まずさは別れて幾日もしないうちに消えてきれいになるものだ。惚々《ほれぼれ》とするような手紙でも書いて、ほんの少しの為替でも入れてやりたいような気がして来る。
 一時のかんばん過ぎにも客があった。
 勝美さんはすっかり酔っぱらって、何処《どこ》から私は来たのやら、何時《いつ》また何処へかえるやらと妙な唄をうたっている。狭い店の中は煙草の煙でもうもう。流しや花売りが何度も這入《はい》って来る。わあっと狂人のように叫びたくなって来る。勝美さんは酔って火鉢の中へ、焼飯をあけている。油のいぶる厭な匂いがする。
 かえり二時半。
 今夜はお爺さんはいないかわりに子供づれの夫婦者が寝ている。収入三円八十銭也。足袋がまっくろで気持ちが悪い。
 豆ランプを引きよせて読書。ますます眠れない。
 みんなが単純なことを書かなければならぬ。いかにして、ピータア・セミョノヴィッチが、マリイ・イワノヴナと結婚したか、それだけで充分です。そしてまた、なぜ、心理的研究、様子、珍奇などと小見出しを書くのでしょう。みんな単なる偽りです。見出しは出来るだけ簡単に、あなたの心の浮かんだままがよく、外のものはいけません。括弧やイタリックや、ハイフンも出来るだけ少く使うこと、みんな陳腐です。――なるほどね。私もそう思いますが、若い気持ちの中には、仲々そうはゆかない珍奇さに魅力を持つものです。でも、いまに何時《いつ》か私もチエホフの峠にかかりましょう。いまに……。
 思いだけが渦をなして額の上を流れる。ごうごうと音をたてて流れて行く。そしてせんじつめるところは焦々《いらいら》として何も書けないと云うこと。このままでは何も出来やしない。まさか、年を取ってか
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