かりいる。電気ブランを飲んでるような唸りかたなり。
「お爺さん、玉の井って知ってる?」
「ああ知ってるよ」
「前借さしてくれるかしら?」
「ああ、それゃアさしてくれるねえ」
「私のようなものにもさしてくれるかしら?」
「ああ、さしてくれるとも……お前さん行く気かい?」
「行ってもいいと思ってるのよ。死ぬよりはましだもン」
 爺さんは両手で禿《は》げた頭を抱えこむようにさすりながら黙っていた。

(一月×日)
 からりとした上天気。眼もくらむような光った雪景色。四十年配のいちょうがえしの女が、寝床に坐ってバットを美味《おい》しそうに吸っている。敷布もない木綿の敷蒲団が垢光《あかびかり》に光っている。新聞紙を張った壁。飴色《あめいろ》の坊主畳。天井はしみだらけ。樋《とい》を流れる雪解け。じいっと耳を澄ましていると、ととん、とんとん、ととんと初午《はつうま》のたいこ[#「たいこ」に傍点]のような雪解けの音がしている。皆は起き出してそれぞれ旅人の身づくろい。私は窓を開けて屋根の雪をつかんで顔を洗った。レートクリームをつけて、水紅を頬へ日の丸のようになすりつける。髪にはさか毛をたてて、まるでまんじゅうのような耳かくしにゆう。耳がかゆくて気持ちが悪い。
 烏《からす》が啼《な》いている。省線がごうごうと響いている。朝の旭町《あさひまち》はまるでどろんこのびちゃびちゃな街だ。それでも、みんな生きていて、旅立ちを考えている貧しい街。
 私のそばに寝た三十年配の女は、銀の時計を持っている。昔はいい暮しをしていたと昨夜も何度か話していたけれど、紫のべっちん足袋は泥だらけだ。
 役にもたたぬ風呂敷包みを私達は三つも持っている。別にどうと云うあてもなく、多摩川を逃げ出して来て、この木賃宿だけが楽天地のパレルモなり。
 洋々たり万里の輝《ひか》りだ。曖昧《あいまい》なものは何一つない。只、雪解けの泥々道を行く気持ちが心に重たい。痩《や》せた十字架の電信柱が陽に光っている。堕落するには都合のいい道づればかりだ。裸の生活はあきあきした。華族さんの自動車にでもぶちあたって、おお近うよれと云うようなしぎ[#「しぎ」に傍点]には到らぬものか。若いと云う事は淋しい事だ。若いと云う事は大した事でもないのだもの……。私の手はまんじゅうのようにふくれあがっている。短い指のつけ根にえくぼがある。女学校のころ、デ
前へ 次へ
全266ページ中218ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
林 芙美子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング