「来年はお前の運勢はよかぞな、今年はお前もお父さんも八方|塞《ふさが》りだからね……」
 明日から、この八方塞りはどうしてゆくつもりか! 運勢もへちまもあったものじゃない。次から次から悪運のつながりではありませんかお母さん!
 腰巻も買いたし。

(五月×日)
 家のかしまはあまり汚ない家なので誰もまだ借りに来ない。お母さんは八百屋が貸してくれたと云って大きなキャベツを買って来た。キャベツを見るとフクフクと湯気の立つ豚カツでもかぶりつきたいと思う。がらんとした部屋の中で、寝ころんで天井を見ていると、鼠のように、小さくなって、色んなものを食い破って歩いたらユカイだろうと思った。夜、風呂屋で母が聞いて来たと云って、派出婦にでもなったらどんなものかと相談していた。それもいいかも知れないけれど、根が野性の私である。金持ちの家風にペコペコ頭をさげる事は、腹を切るより切ない事だ。母の侘《わび》し気な顔を見ていたら、涙がむしょうにあふれてきた。
 腹がへっても[#「腹がへっても」に傍点]、ひもじゅうない[#「ひもじゅうない」に傍点]とかぶりを振っている時ではないのだ。明日から、今から飢えて行く私達なのである。あああの十四円は九州へとどいたかしら。東京が厭《いや》になった。早くお父さんが金持ちになってくれるといい。九州もいいな、四国もいいな。夜更け、母が鉛筆をなめなめお父さんにたより[#「たより」に傍点]を書いているのを見て、誰かこんな体でも買ってくれるような人はないかと思ったりした。

(五月×日)
 朝起きたらもう下駄が洗ってあった。
 いとしいお母さん! 大久保百人町の派出婦会に行ってみる。中年の女の人が二人、店の間で縫いものをしていた。人がたりなかったのであろうか、そこの主人は、添書のようなものと地図を私にくれた。行く先の私の仕事は、薬学生の助手だと云うことである。――道を歩いている時が、私は一番愉しい。五月の埃《ほこり》をあびて、新宿の陸橋をわたって、市電に乗ると、街の風景が、まことに天下タイヘイ[#「タイヘイ」に傍点]にござ候と旗をたてているように見えた。この街を見ていると苦しい事件なんか何もないようだ。買いたいものが何でもぶらさがっている。私は桃割れの髪をかしげて電車のガラス窓で直した。本村町《ほんむらちょう》で降りると、邸町になった路地の奥にそのうちがあった。

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