ねえ……」
「隣りと云えば、今晩は蕎麦を持って行かなければいけないのだけれど、どうでしょうか」
「幾つずつ配るもンだ?」
「そうね、三つずつもやればいいンでしょう」
引越した初めというものは、妙に淋しく何かを思い出すのだ。私は何度となくこのような記憶がある。別れた男達と引越しをしては蕎麦を配った遠い日の事、――もう窓の外は暗くなりかけている。私は錯覚《さっかく》を払《はら》いのけるように、ふっと天井《てんじょう》を見上げた。
「オヤ、電気もまだ引いてないンですよ」
「本当だ、引込線も無いじゃないか、二三日は不自由だね」
長い間の習癖《しゅうへき》と云うものは恐ろしいものだ。私は立ち上ると、人差指で柱の真中辺を二三度強く突いて見た。すると、私自身でも思いがけなかったほど、その柱はひどくグラグラしていて天井から砂埃《すなぼこり》が二人の襟足《えりあし》に雲脂《ふけ》のように降りかかって来た。
「ねえ、これはあンた、潰《つぶ》しにしたってせいぜい弐参拾円で買える家ですよ。どう考えたって、拾七円の家賃だなんて、ひどすぎるわ、馬鹿《ばか》だと思うわ」
与一は沈黙《だま》って、一生懸命《いっしょうけんめい》赤い鼻の先を擦《こす》っていた。「この女は旅行に出ても、色々と世話を焼きたがる女に違いない。前の生活で質屋の使いや、借金の断りや、家賃の掛引《かけひき》なんぞには並々《なみなみ》ならぬ苦労を積んで来たのであろう」与一はそんな事でも考えていたらしく、ズシンと壁に背を凭《もた》せかけて言った。
「僕《ぼく》はとてもロマンチストなんだからね、だが、君のどんなところに僕は惹《ひ》かされたンだろう……」
そうむきになって云われると、私はまた泪《なみだ》ぐまずにはいられなかった。「またこの男も私から逃げて行くのだろうか」男心と云うものは、随分と骨の折れるものだ。別れた二人の男達も、あれでもない、これでもないと云って、金があると埒《らち》もなく自分だけで浪費《ろうひ》してしまって、食えなくなるとそのウップンを私の体を打擲する事で誤魔化していた。
「ねえ、私のような女は、そんなに惹かされない部類の女なの? だって夫婦《ふうふ》ですものね、それに、私は誰からも金を送ってもらう当《あて》はないし……」
与一は二寸ばかりの黄色い蝋燭《ろうそく》を釘《くぎ》箱の中から探し出すと、灯をつけて
前へ
次へ
全22ページ中8ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
林 芙美子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング