いんだから……」
「私が本当に悪いんです」
「馬鹿! 勝手にしろ」
 太つちよの女は、いつまでも歯を噛みしめて泣いていました。
 谷村さんは、自分の気の狂いそうな事よりも、まず此の女のロンロンと云つた風な泣声が癪でなりませんでした。
「オイ! お上さんを呼ぼうか、僕は迷惑だよ。只、僕は僕の気持が果したいから、一人であばれているんで、本当に君なんか邪魔なんだよツ、釦を押すよ」
 太つちよの下女は、谷村さんの手を押えると、まるで神様へひれ伏すかのように、身を伏せて声を噛みました。
「わたしは貴方が好きなのです。死ぬ程、思いつめて、私は皆から笑われながら、貴方を好いているのです」
 谷村さんは、愕いてしまいました。あんまり愕きが大きかつたせいか、狂暴な今までの気持がふいと静まつて、反対に、おかしくておかしくて笑い出したくなりました。
「許して下さい。私のような学問のない女でも、一生懸命勉めて、貴方について行きたいと思います」
 谷村さんは、竹行李の中にたまつた五六十個もある卵の事を思い、唐詩選の中の詩をふと頭に浮かべました。
 人生意気に感じなば
 功名誰か復論ぜんや
 谷村さんは非常に涙もろくなりました。
「自分」も、そう大した男振りだとも思わないし、谷村さんは来年はもう卒業です。そうして山の村へ帰つて、お百姓相手のお医者様になるのですが、誰が「俺」のようなものに――そう思うと、急にはかない[#「はかない」に傍点]ものがこみ上げて来て、太つちよの下女のくれた沢山の卵を谷村さんは思い出しました。そうして、わけもなく感傷的になつて、その女中の掌を握つてやりました。
「おしげツ! おしげや、まあ、どこへ行つたんだろうね、のぼせ上つて……」
 当てつけるようなお上さんの怒声が谷村さんの部屋まで聞えて来ます。すると間もなく、誰の悪戯か、谷村さんの部屋の釦が、けたゝましくリリ……と鳴り出しました。
「君はおしげつて云うのかい?」
「ハイ」
「いゝ名だね」
 女は子供のように小さいシャックリを上げて泣いていました。肌が田舎の女らしくとても白々とさえ見えました。
 谷村さんは、いじらしい彼女を、慰めてやろうと思つて髪の話を始めました。
「僕が越して来た時、朝の蜆汁の中へとても長い髪の毛がはいつていたンだよ。で、僕は、結局君だと思つて、あの朝、何気なく君の髪の毛を一本抜いたんだ。顕微鏡で調べようと思つてね」
「まあ……」
「ところが君じやなかつたンだ。安心したまえ、油は同じだつたけどね」
「え、おしのさんと一緒に安油をつかつていますが、……私の髪の毛をお抜きになつたのは、そんな、そんな事だつたのですか?」
 太つちよの女は気の抜けた、野性そのまゝの表情で、谷村さんの顔をじつと見ています。

 6 それから、もう谷村さんの食事は大変カンタンになつてしまいました。あんなに、朝か夕方かにつけてくれた二ツの卵が、谷村さんのお膳に乗つて来なくなつたし、お膳運びが、スガメの女で、前よりも、汁の中に髪の毛が多いようにさえなつたのです。
 谷村さんは、その幾筋かの髪の毛を見ても、唯微笑して取り去るだけで、もうそんな事で神経を痛めるのは馬鹿らしいと思うようになつていました。

 人生意気に感じなば
 功名誰か復論ぜんや
 昔の詩人の云つた言葉でもつて、若さを台なしにしてしまつてはおしまいだと谷村さんは、メスを磨いたり顕微鏡を拭つたり、ノートを新しくして気持を替えようとはかりました。
 或日。
 平和な日の学校通いは、いゝ散歩でありましたし、谷村さんには大変愉しいのでありました。いつものように、コツコツ秋風の渡る街路樹の下を歩いていますと、
「谷村さんではありませんでしようか?」
「谷村?」
 谷村さんは、眼鏡をズリ上げて、振り返つて見ました。矍麦のようだつた、あの美しいひとが、薔薇のようにすんなりとなつて谷村さんの前に立つていました。
 心静かであるべき筈なのに、谷村さんの顔面筋肉はピクピクして、胸はコトコト鳴り出しました。
「もう三週間以上にもなりますわ」
「それで、私に何の用があるんですかツ」
「本当にお怒りはごもつともだと思つています。幸い姉が、秋の展覧会に入選いたしましてあのお金大助かりでございましたのよ」
 二人はいつか肩を並べて歩いていました。
「今日、お怒りになつていらつしやるだろうと、実はビクビクして参りましたら、もう貴方が、郊外の方へお越しになりましたつて話ですもの、住所も判らないとの事ですし、実は悲しくなつて歩いていましたら、ヒョッコリ貴方が、私の横を素通りなさるのですもの……」
 やつぱり、あの太つちよの女は豚であつたと谷村さんは、手を握つてやつた事を心のうちで後悔しました。美しい彼のひとは、谷村さんから金を借りると、すぐ姉の絵の具を買つてやつ
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