宿の軒にも灯がついています。軒の下宿人の名札のビリッコに、「谷村三四郎」と云う、自分の名が見えました。谷村さんは、十二三人の下宿人の名札をそつとしらべて見ました。今日の女のひとは、どの男を訪ねて行つたのであろうかと、ですが、どれもこれもあの美しい女の訪ねて行きそうな男の名前なんぞはなく、只一人これであろうかと思つたのは、「小松百合子」と云う優しい女名前でありました。
「ハハン、さては、女の友達を訪ねて来たのであろう」
 谷村さんは、心が何か静まつて、一寸うれしく肩で笑いました。と、ふと自分の名札を見ますと、女の髪の毛が、三四郎の三の字のところへくつついて、フワフワ風に吹かれていました。
 谷村さんは、今朝、太つちよの女の髪の毛を一本抜いて、のつぴきならなかつたあの気持を思い出して、また憂欝になりましたが、此の髪の毛を取つて、顕微鏡でしらべたならば、あの太つちよの下女に、しかと訓戒を与える事も出来るであろうと、三の字にくつゝいていた、その髪の毛を摘んで、中へはいりました。
「お帰んなさいまし」
 又、太つちよの下女です。
 下女は朝と違つて、大変さつぱりと髪を結つて、豚のように太つた襟筋に、うつすりと白粉をはいて、衿にレースのついた白いかつぽう[#「かつぽう」に傍点]着を着ていました。
「お部屋へじきに御飯持つて参りましようかね」
 谷村さんは、夕飯を持つて来るまでに調べておきたかつたので、気むずかしく声を荒げて云いました。
「僕アおなか[#「おなか」に傍点]いつぱいだ、もう一時間位してからにして下さい」
 太つちよの女中は、谷村さんを見ても、朝のようにキッキッと笑いませんで、淋しそうに大きい溜息をついて、手紙箱の方をしらべに立つて行きました。二階から空のお膳を持つて降りて来たスガメの下女が、谷村さんを見て、くすりツと盗み笑いをして台所へ行きます。
 谷村さんは、大変眼が近いので、スガメの下女の盗み笑いを見逃して、郊外から持ち越しのスリッパをペタンペタンはいて、洗面所の方へ手を洗いに行きました。

「まア!」
「やア、さつきは……」
「まア、本当に私こそさつきはありがとうございました。お蔭様で、あのウ……どなたかお友達でもお訪ねになつてこゝへいらつしやいましたの」
「いゝえ、僕ア実は昨夜こゝへ越して来たんですが、清修館と云うのが自分の下宿だとは思いませんでしたから……
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