て自分はまた銀座あたりのカフエーなぞを歩いて、姉の製作費を捻出していたとの事でありました。
 七拾円あまりの貸した金も、かのひとは、美しい紅いリボンのついたハンカチフーの包みと一緒に、谷村さんに押しつけました。
 谷村さんは呆然として手を出していました。
「あゝ私、これでとてもせいせいしましてよ。これは、姉の絵のエハガキでございますの、ね、此の日曜日に、上野へ参りましようよ。姉がとてもよろこびますわ」
 谷村さんも落ちついてものが云えるようになりました。
 フルゥツパーラで、オレンジエードを飲んでその女のひとと別れると、谷村さんは、久し振りで肩で笑いながら下宿へ帰つて行きました。そして燈火のつき始めた、軒下の名札掛を眼を寄せて覗いて見ますと「小松百合子」と云つた女絵描きさんのところが、とうに空つぽになつていて、あとは一人も不足した下宿人なぞはありませんでした。
「あゝ、女の髪のひとすじの恐しや」
 谷村さんは行李や、薄団をまとめると、もう日暮れだと云うのに荷車を頼んで、清修館を出ました。
「オイ引越屋さん、どこか静かな下宿へつけて下さい」
 そこで谷村さんの気持を、只少し明るくしている事は、あの、押し入れの中に残して来た五六十箇の腐つた卵を、あの太つちよの女がどう処分するかと云う事でありました。



底本:「濡れた蘆」東方社
   1956(昭和31)年11月10日発行
※仮名遣いに乱れがありますが、底本のままに入力しました。
入力:林 幸雄
校正:花田泰治郎
2005年6月27日作成
青空文庫作成ファイル:
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