谷村さんはグッと押し上げる不快さを隠して、太つちよの下女がそろえてくれた靴に足をかけました。と、まだその下女は朝の髪に櫛を入れないのでありましよう、蓬々として、朝風に何日も洗わない臭い匂いをたゞよわせていました。谷村さんは何気なく胸に風呂敷包みをズリ上げてまるで夢でも見ているような気持ちで、ちよいと下女の髪の毛を一本抜いたのであります。
「アラ! まあ、御冗談を……」
 下女はさつと顔を赤らめて、両手で乳房を抱くと、キッキッと笑つて台所の方へ走つて隠れて行きました。
 谷村さんは抜いた一筋の毛を捨てもやらずに、持つたまゝ呆やり立つていましたが、丁度その時お上さんが帳場の方から出て来ました。
「あゝ、お早うございます。お序にこれをちよいと、名札掛けにかけて下さいませんですか、おつかいだてして済みません。――どうです、うまいもんでございましよう」
 黒塗りの板に朱で、「谷村三四郎」と書いてある札を持つて来て、お上さんは妙に笑つています。
 谷村さんはホッとして、その自分の名札を受取ると、そゝくさと、名札掛けにそれを掛けて下宿の石の段々をあわてゝ降りました。

 2 長安一片の月
 万戸衣を擣つの声
 秋風吹き尽くさず
 総じて是れはこれ玉関の情なりき
 何れの日にか胡虜を平げて
 良人は遠征を罷めなん

 谷村さんは、夏中愛読した唐詩選の中の、李白の詩を心よげに口ずさんで歩きました。
 下宿から学校までは、五町あまりのものでありましたが、大変谷村さんには腹具合のいゝ散歩で、その学校までの道筋には、麻雀荘だの、安カフエー、古本屋、魚屋、床屋、玉突場なぞ何か安直な肩の張らない店が、煤けて並んでいました。

 大変いゝお天気です。空には飛行機が、ブンブン唸つて、五色の広告をヒラヒラ撒いている様子でありました。
「あのウ、一寸おうかゞいいたしますけれど……」
 街路樹の下を、詩をぎん[#「ぎん」に傍点]じて歩いていた谷村さんは、田舎の厨でよく聞くこほろぎ[#「こほろぎ」に傍点]の声のように凉し気な女の人の声を耳にして、ハッと立ち止まつて振り返りました。
「あのウ……六十一番地の清修館と云う下宿を御存じでいらつしやいませんでしようか?」
 清修館、何か聞いたような……谷村さんは首筋を赤くして考えました。
 女のひとは、長めな断髪で、手には大きな紅色の風呂敷包みを二ツもかゝえて
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