上海へ着いた時は、上海はからりとした秋晴れの美しい天氣だつた。澤山の迎へのなかに工藤の姿を探したけれど工藤はゐなかつた。遠い異郷へ來て、はじめて、信頼してゐたひとに見捨てられたやうなうそさむいものを感じた。もんは、船で知りあつた女のひとの世話で、賑やかな四川路底の日本人の旅館に拜み[#「拜み」は底本では「拜む」]こむやうにしてやつと小さい部屋をとつた。部屋のなかできいてゐると、街の建物が石や煉瓦で建つてゐるせゐか、人聲や俥のベルの音がかんだかくひゞいてきこえた。一寸近所を歩いて買物をしても物價は非常に高い。二階三階が爆破されてゐても、階下では商賣の店をひろげてゐる支那人の店もあつた。もんは、四圍が暗くならないうちにと、宿で自動車をたのんでもらつてヤンジツポの近くにある[#「ある」は底本では「あの」]工藤のアパートにたづねて行つた。工藤の部屋には鍵がかゝつてゐて留守だつたけれど、隣室の若いおくさんの話では、御夫婦とも朝からお出掛けで留守ですと云つた。工藤さんのおくさんは、九州の方だとかで氣分のいゝ明るいひとですと話してゐた。あゝそうだつたのかと、もんは茫然とした氣持で、隣室のおくさんにアドレスを書いた名刺をことづけて宿へ戻つた。もんは食事もしないで暗い部屋で早くから眠つた。リノリユームを敷きつめた廊下をしじゆう大きい靴の音や、男の太い聲が行き來してゐた。高い天井近くに青ガラスの窓が一つあつた。置床にはがさつな鏡臺が一つあるきりの部屋である。もんは寢ながらくれてゆく窓を見てゐた。自分が莫迦だつたと思つた。人倫の道と云ふのはこんなものだつたのかと、ふうつと溜息をつきながら枕をつかんでゐた。工藤は自分と云ふ女の躯をみんなよく知つてゐるはずだのに、どうしてよその女のひとと、平氣で暮してゐられるのか少しもわからないのである。いまさら、工藤を深くうらむ氣持にもなれなかつたけれども、あんまり、自分の間拔けさがめだつてきて肚にをさまらない氣持だつた。父と弟へは着いたといふ電報だけ打つた。
 翌日、工藤が薄色のついた眼鏡をかけてもんをたづねて來た。工藤は默つたまゝ疊へ寢ころがつて眼鏡をはづした。もんが、どうしてくはしく書いた手紙をよこさなかつたのですか、そしたら、私も來るのではなかつたのだと話すと、工藤は毎日疲れて、社の用事以外は字一つ書く氣がしなかつたのだと云つた。「ずつと以前から御
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