中堀が下駄をつゝかけて庭へ降りて行つた。延岡は洟やよだれをづるづる出して、齒ぎしりをして唸つてゐる。
「へつぽこ大學生に負けてたまるものか!」
 延岡は締めつけられながらも、まだ毒づいてゐた。謙一はそれを聞くと、急に沓下のまゝ庭へ飛びおりて行つて、二人の間を引きはなすと、
「延岡! 貴樣歸れ!」
 と、大きい聲で呶鳴つた。立ち上つた延岡は胸をはだけて、唇尻には少し血がにじんでゐた。酒臭い息を吐いてしばらく櫻内を睨んでゐたが、そのまゝ延岡は庭の外へすたすたと跣足で出て行つてしまつた。
「あら、あの方、帽子があるわ‥‥」
 埼子が帽子を持つて來たが、誰も帽子を持つて行つてやるものはなかつた。
「生意氣な奴だ。どうしてあんなのを呼んだンだ?」
 櫻内が謙一に詰問してゐる。埼子の母が驚いてわくわくしてゐたが、すぐに雜巾を持つて來て謙一にわたした。謙一は雜巾を櫻内に取つてやつて、自分は沓下をぬいで座敷へ上つた。やがて、遠くの濱邊を歸つてゆくらしい延岡の歌聲が、風に吹き消されるやうに小さくかすかにきこえて來た。
「いゝ人物なんだがねえ、田舍にゐると、意識過剩になつて、あんなに妙な人物に風化さ
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