ちむかつてゆく勇ましい元氣があるのだ。それなのに謙一だの自分達の周圍はいつたいどうしてこんなに昏いのだらう‥‥食べることや、生活にはどうやら困らないでゐられるけれども、四圍のすべては老人臭くてごみごみしてゐて、あんなに、どの學生も職業探しに血まなこになつてゐる‥‥。二度と再びめぐつて來ない青春すらも、押しかくしてみんな毆りあつては生きてゐるのだ。
埼子は、この海邊の別莊で、何年生きられるのかもわからなかつたけれども、何かしら、この世に生を受けて生まれて來たそのことが、悲しく切なく感傷的になつてきてゐた。
「這入つていゝ?」
「誰なの?」
「僕‥‥」
「這入つていゝわ‥‥」
謙一は滿ち足りた眠りから覺めた明るい顏色で、のつそりとサン・ルームへ這入つて來た。
「だいぶ狐色に燒けたのね?」
「私の背中、いゝ色でせう‥‥」
謙一はまぶしいものでも見るやうに、埼子の背中を眺めた。燒きたてのパンのやうにふつくらしてゐる。背筋の溝の線も健康さうだつた。肩の肉づきは子供のやうに薄くて、とがつたやうな左の肩さきに、陽がきらきら射してゐる。窓硝子の向ふには、白く陽に反射した海が見えた。
「謙一さんは、いつまた東京へくるの?」
「さうね、一週間ぐらゐしてかな、向ふへ行くのは二月の末か三月の始めだから、まだ、度々こゝへはやつて來ますよ‥‥」
「やつてこなくてもいゝわ」
「どうして?」
「どうしてでも‥‥あなたは、自分でどんどん何でもおやりになれるし、ちやんと方向がきまつてゐて安心ぢやないの? 私は、もうこゝで死ぬる日を待つてるだけだもの、來てくれなくつてもいゝの‥‥」
「このごろ、埼ちやんは、どうかしてるよ。どうしてそんなにひがみ[#「ひがみ」に傍点]が強くなつたのかな?」
「失禮ね、ひがんでなんかゐないわ‥‥」
埼子は藤椅子から起きあがつて、乾いたタオルで胸や腕をこすつた。兩の乳房が、小學生の子供のやうに小さい。謙一は卓子の上の、もひとつのタオルで埼子の背中をこすつてやつた。
「カツ子姉樣はとてもふとつてたわね?」
「‥‥‥‥」
「今日はもう、カツ子姉樣の話をしてもいゝわ。みんなもうよそのひとなんだから‥‥」
埼子はオレンジ色のブラウスを着て、胸の黒い釦を一つづつはめながら、
「櫻内さんたちどうして?」
ときいた。
「さつき、中堀と爺やさんの案内で濱へ地引網を見に行つたんだけど‥‥」
「さう‥‥あの櫻内さんて、とても元氣な方ねえ、八幡の製鐵所へいらつしやるつて向いてると思ふわ。――みんな大學を出て、職がきまつて、戀もしないでお嫁さんを貰つて、赤ちやんが出來て、平和に一生を送るのね?」
「それでもう澤山ですよ‥‥埼ちやんは、頭の中だけで色々なことを考へて、一人で人を罰したり、人を讚めたりしてゐる‥‥人間らしい生きかたと云ふのは、結局は平凡な生涯[#「生涯」は底本では「生滅」]にあるんぢやないかな‥‥埼ちやんはあんまり小説類を讀みすぎるね。あんたは病氣なんだから、病氣に勝たなくちやいけない。やつぱり、規則正しく日光浴をして、散歩をしたり、おいしいものをたべたり、いまのところ、呑氣にそんなことをした方がいゝと思ふンだけど、埼ちやんが焦々してゐると、みんなが焦々しなければならないもの。僕は、昨日、埼ちやんが砂を運んで來てくれただらう。あんな無邪氣な埼坊が好きだなア、――就職をして、お嫁さんを貰つて、平和に生涯を終ることが出來たら結構だと思つてゐるンだ‥‥」
「おゝ厭だ。そんなしみつたれた若さだの、しなびた青春なんてきらひだわ‥‥」
「しなびた青春か‥‥さうかなア。青春と云ふものは、一々大芝居をしてみせなきやならないものとも違ふし、環境によつて、貴族の青春もあるだらうし百姓の青春もあるだらうし、僕たちのやうなサラリーマンの青春だつてあるンだ。埼ちやんが讀んでゐる小説の青春は、それはその作家の描いた芝居であつて、現實の世界に、これが僕たちの青春でございと金看板はさげられないぢやないの? 青春の氣持なんかはその人々で生涯持つことも出來るだらうし、僕は平凡に就職して、親爺やおふくろによろこんで貰ふことで滿足だな‥‥」
「‥‥‥‥」
「埼ちやんに云はせると、與へられた職なんかも時には放つたらかして、一人の女を熱愛することが青春なんだらうけど、それだつて結局はたかが知れたものだ‥‥」
謙一は窓邊に行き、窓を開けて海を眺めてゐた。海の色は段々青く染まつてきてゐる。空には小さい白雲が吹き流れてゐた。
「そりやア謙一さんは、長生きをする方だからそんなことが云へるのよ。私は、‥‥私は、いつ死ぬるかもわからないンですもの‥‥」
「何を云つてるンだ。病氣なんかに負けちやいけないとさつき云つたでせう‥‥少しのんびり保養をしてゐたら、埼ちやんなんか若いのだから、すぐカツ
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