ずんだ洋紙を赤い木綿糸でとぢた雑記帳を開いて、ひな子は、自分の描いたこれらのすみれの絵を見せるのでありましたが、どれもこれも兎の耳のやうで、[#「やうで、」は底本では「やうで」]満足なすみれの花は一ツも描いてありませんでした。
 只、そのあやし気なすみれの絵に説明がつけてあるので、やつと、まるばすみれだとか、ひなすみれなぞと判るのでした。ひかげすみれなぞは、花の絵に線を引つぱつて、ここ白なり[#「ここ白なり」に傍点]と書いてあつて、――木かげの地に生じ、卵色の根より苗を生ずる特長ありて、無茎生で、その有柄葉は根生し、葉は楕円形でふちに鈍歯を有し、薄く毛があり、花は小さく少なく、色白く紫色の線あり――なぞと、判つたのか判らないのかむつかしい言葉で書いてありました。
「うちの先生、本にないのばア教へてむつかしいけエなう」
 何時もの癖のやうに八ツ口からむき出しの両腕を出して、「おほけに」と由のひざの荷物を持つて立ち上ります。
「おい、おかめ、何よウしよる、学校おくれてしまふぞ」
 床屋の男の子が同級生のくせにえらぶつて云ふのを、ひな子は、ニコニコ笑ひながら、「わしと並んで行きたいのぢやろウ」と、少女のなかにありやうもない嬌笑で云ひかへすのでした。おほかた、父親達が置屋へ行つて呼び馴れてゐるその名前を、自分達も何時とはなく覚えて呼びよくなるのでせう、町の男の子達は、ひな子のもうひとつの名を呼んで、「おかめおかめ」と云つてをりました。

 3 由にとつて初めの一週間は、極めて長い厭なものに思はれましたが、段々島の風景が眼に浸みて来ますと、仕方がないと云つた落ちつきも出て来るのでありました。それに此島では、海にひたひたの山の根に添つた町なので、夜になると暑くもないのに、どの家の戸口にも人が出てゐて、向うどうしや、隣りどうしで声高く世間話をするのでありました。その世間話は、たいてい島の中の話なのでありましたが、由が、一番よく耳にとめたのは、何と云つてもおりくさんと云ふ男女子の話でした。おりくさんと云ふのは、島でも一流の置屋の主人で、女のくせに髪を男のやうに短く刈り上げ、筒袖の意気な着物に角帯を締めて、その帯には煙草入れなぞぶらさげ、二三人の若い女を連れては、角力取りのやうにのつしのつしと歩いてゐる女のひとでした。男にしてみても仲々立派なもので、「景気はどうの?」と云つて人に挨拶
前へ 次へ
全9ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
林 芙美子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング