いくらにも売れやしないよ、月遅れぢやないか、屑屋へ持つて行くと、これだけで五銭位には買ふよ」
「そんな事を言はないで、ねえ、買つとくれよ」
「ここは判こがなくちや買へないンだぜ」
「爪印でいいンだらう?」
「爪印? こましやくれたこと言ふ子供だねえ、この雑誌、どうしたンだい?」
「うちの姉さんがくれたンだよ」
「莫迦言つちやいけないよ、こりや回読会の雑誌ぢやねえか、知れたら巡査に連れて行かれるぞ‥‥」
私は本屋の主人と子供の問答をきいてゐたが、その声には何だかきゝ覚えがあつた。文庫のはいつてゐる小さい本棚の横から覗いてみると、花屋の前で、私に金をくれと言つた愛らしい子供であつた。どうして、あの子供はあんなに幼いくせに金の心配ばかりしてゐるのだらうと、暫く、その子供の様子を見てゐると、子供は途方にくれたやうな顔で、
「ねえ、これを売つて帰らないと困るンだけど、ねえ、買つとくれよ。これで麦を買ふンだよ」
「ふん、麦を買ふ? この雑誌で何升買えると思つてるのかい?」
「一升買へばいゝンだよ」
「一升ねえ」
「あゝ一升二十銭だぜ」
「坊やの家ぢや随分ゼイタクな麦を食つてンだね。安麦でうまいのが一升十六銭だぜ」
本屋の主人は店先きでもぞもぞしてゐる子供相手が面倒になつたのか、銅銭を二ツ出して、
「ほれ、お駄賃だ、この雑誌は屑屋へでも持つてきな」と言つた。
銅貨を貰ふと子供は走つて雨の中を出て行つた。若い主人は「此辺の子供は仕様がない」と言つて、立ちあがると、呆んやりつゝ立つてゐる私へ、馬琴の燕石襍志と云ふのを出して見せてくれた。和綴じの六冊本で、馬琴の覚書きのやうなものであつたが、西鶴のことについての小伝記は、立つて読んでゐる私にも大変面白かつた。
「これ、どの位なの?」
「案外安いンでございますよ。拾円位なら手放してもよろしうございます。虫ひとつ食つてないのですから珍らしうございますよ」
私は、その六冊の本を取つておいて貰ふことにして、本屋の主人の淹れてくれた茶を喫みながら、さつきの子供に、花屋の前で金をせびられた話をした。主人の話では、堀川ひとつ越した埋立の長屋の町では、子供達の間に色々なことを言はせて、道行くひとに金をせびらせてゐるといふことであつた。
私は、わざわざ、帰りにその埋立の町を通つて見た。「下駄の歯入れゐたします」といふ家や、釜や靴を店先きに並べた
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