と云ふ美容師が來て、杉枝の衣裳を見立ててゐるのかも知れない。相當賑やかになつて來た。
 軈て杉枝が青い蜜柑を盆へのせて持つて來た。
「あら、姉さんはまた小説を讀んでゐるの? 階下へいらつしやいよツ」
「うるさいから厭よ」
 疊の上に寫眞が放つてあるのが杉枝の眼にとまつた。杉枝は立つたまま暫く蒲團のそばに放つてある安並の寫眞を見てゐた。だんだん顏が眞赤になると、急にそこへぺつたり坐つて袂を顏へあてた。登美子は寫眞のことで、このじやじや馬は腹をたててゐるのだらうと、いつとき默つてゐた。
「私、安並さんのところへ行くのやめてもいいのよ」
 杉枝は泣いてはゐなかつたのか、洗つたやうな明るい顏を擧げて、小さい聲で登美子に云つた。登美子は何だか、この寫眞を疊へ放り出してゐるので、自分が誤解されたのだなと、厭な氣持で、
「やめてどうするの?」
 と意地惡な問ひかたをしてみる。
「やめてどうするつて、お姉さんゆけはいいぢやアないの……」
「私がゆく? へーえ、そんな風に思つて、そんな事を云ふの? 何も、貴女の旦那さんの寫眞を私が見たからつて、私がゆきたいから見たとは限らないでせう? ――をかしいことを云ふひとだなア。安並さんがどんな人なのかとくと見聞しておくのも第三者としていいことぢやないの。私がゆくんだつたら、とつくに安並さんともうここの座敷に二人で並んでゐますよ。寫眞を見たのがいけなければ、これから見料を出して札を買つて見なくちや、あんたの家へは遊びにゆけない事になるぢやないの……」
 氣嫌をなほしたのか杉枝はくすくす笑ひ出した。
「私、ここに放つてあるから、ひがんじまつたのよ」
「食物でひがむのなら判るけれど、まさか、旦那さまのことでひがむのないわねえ……」
 登美子は寫眞を取つて、薄いびらびらの紙も丁寧にかぶせて、杉枝の膝に、
「大事になさいよ」
 とそおつと置いた。
「姉さんは、安並さんの何處が氣に入らないの?」
 安並の何處が氣に入らないかと訊かれて、いまもいま、何處と云つて厭なところはなく、案外立派なひとだと思つて見てゐたところだつただけに、一寸、難をつける説明がみあたらない。
「寫眞より實物の方がとてもいい方だわ。しつかりしてゐて、きつと、姉さんの好きになるやうな方なの……」
「そうかしら、でも、私、この寫眞の蝶ネクタイが氣に入らないわ。蝶ネクタイをしてゐるひとにろくな人がゐないもの……」
「あら、これはそうだけど、此間は違つてよ。とても澁いちやんとしたネクタイだつたわ」

       ○

 杉枝は姉の結婚話のことは何も知らないで、與田先生の家へ遊びに行き、そこで始めて安並に逢つたのだ。無口で、その上大柄で何となくおつとりしてゐる安並が杉枝は好きで仕方がなかつた。男の兄弟と云へば中學一年の弟一人で、かうした逞しい青年の友人を一人も持たない杉枝は、一と目で安並が好きになり、それからは與田先生に何處か安並さんのやうなところへお嫁に行きたいと話をした。安並も杉枝ならば貰つていいし、杉枝の家でおゆるしさえあれば、九月中旬に式を擧げたいととんとん拍子に話がまとまつたのである。話がまとまつてから、杉枝はよそのひとに、あのひとはお姉さんと見合ひをする人だつたのだと聞かされて、なアんだそうだつたのかと、獨りで赧くなつてゐた。それでも、杉枝との話はまとまり、式の日もきまり、二三日のうちに、安並を招待して、内輪でみんなにひきあはせる夜を待ちませうと云ふことにまで到つて、杉枝は姉には上手に默つてゐた。
 その安並を迎へる夜が來て、杉枝の家族はみんな客間へ集つて卓子をかこんだ。床の間には安並と杉枝達の父親。左右向ひあつては、與田先生と登美子、その他はごちやごちやと、中學生だの、母親だの、杉枝だの女中と並んでゐる。
 登美子は白いブラウスに紺のスカートを着てゐた。安並もこれが與田先生に見せて貰つた寫眞の姉の登美子なのかと、紹介されてしみじみとあいさつを交してゐる。落ちついてゐて、杉枝のやうに艷なところはなかつたけれども、安並は長い間、このやうな品のいい女性を求めてゐたやうな氣がした。變屈で、無口で、華美なことのきらひな娘だと與田先生は登美子のことを話してゐたものだ。
 面長だつたが顏はほどよく小さくて、眼が一座の誰よりも美しく輝いてゐる。時々おもひがけない時に非常なすばやさで千萬の言葉を語る熱情をその眼はたたへてゐた。唇はひきしまつてゐて、唇尻がいやしくなくゑくぼのやうにひつこんでゐる。父親の顏によく似てゐた。
 登美子達の兩親も、安並の人柄が氣に入つたのか、非常にうれしさうで、無口で人ぎらひな父親まで何十年前かの支那旅行の話なんかを持ち出してゐる。
 杉枝は今日は花模樣の派手な洋服を着て、さかんに女中と出たりはいつたりして働いてゐた。眼鏡をかけた
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