の娘の矢須子も結婚してしまつてゐるのに、どうして登美子だけが何時までも長閑にしてゐるのか娘の心の中が少しも解らなかつた。
 今日も、登美子は二階で蒲團を干しながら、何時の間にか、その蒲團の上に寢ころんで、秋の陽のかんかん射しこんでゐるところで、與田先生から借りてきた漱石の草枕を讀んでゐた。ひとかどの見識を持つた、「余はかく思ふ」と云ふやうな余と自稱する小父さんが、人生を論じ、社會を諷し、浮世を厭と思へば、もう人間世界には住めなからう、人間世界に住めなければ人のゐないところへ行かなければならぬなどと、莫迦氣たことを書いてゐる。登美子は面白くてたまらなかつた。こんなひとと結婚をしたら、さだめし家の中はごちやごちやと理窟づくめで面白いだらうと思つた。地面につばき一つ吐くにしても余先生には何かひとかどの理窟がある。余先生は、鏡を眺めて、自分の顏をこつぴどくやつつけてゐながら、自分の顏には相當の自信を持つてゐるやうな逆モーシヨンの讚めかたも仄かにうかがへて、登美子はくすくす笑ひながら、此世にはもうゐないところの余先生である漱石をなつかしがつてゐる。
 階下では杉枝が大きい聲で笑つてゐる。與田先生の御主人から送つて來た猿が、このごろ登美子の家のペツトになつてゐて、時々家ぢゆうのものを笑はせてゐるのだ。登美子はふつと、妹の鏡臺のところへ行き、安並敬太郎の寫眞を蒲團のところへ持つて來た。杉枝の良人となるべき人物も、ほんの一二週間前までは、自分の相手として話を持ちこまれたのだと思ふと、登美子は運命の不思議さを感じないではゐられない。平凡な顏だちで、登美子にとつてはむしろ好意のもてる顏だつたけれども、與田先生の持ちこんで來た話だと云ふことにこだはり、何故だか氣がすすまなかつたとも云へる。三十二歳で、早稻田の法科を出て、七年も上海に住んでゐるひと、軍籍はくじ[#「くじ」に傍点]のがれだとかで一度も兵隊にはゆかないのださうだ。登美子は、寫眞の逞しい人物を眺めてゐて、この人がくじ[#「くじ」に傍点]のがれだなンて不合理だと思ひ、こんな立派な躯をしてゐる人が、相當にくじ[#「くじ」に傍点]のがれで殘つてゐるとするならば、日本もまだ頼もしいものだと登美子はそんな事を呆んやり考へてゐた。
 笑つてゐるンだか、泣いてゐるンだか、猿が百舌のやうにかんだかく鳴いてゐる。うるさいほどだ。階下では此町一番だ
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