方がありません。山の中へ早くかえりたいと思いました。こんな嘘つきのところにいると何をされるかしれないので、狐はだんだんこわくなってしまいました。
「おれのところでは、鷄をもう二度も六兵衞に食われっちまったンだからな……。」
「狐ぐらい動物のうちで惡い奴はないのう。あれは魔物だからなア。雨の降る晩は、かならず山に灯をつけてからかうし、ろくな事をせんぞ。二三日、六兵衞はひぼしにして、腹をきれいに干して、いっぺん狐汁でもしてみんなで食おうじゃないか。」
「うん、狸汁はうめえそうだが、おれは、狐汁というのは始めてだ……。」
狐はびっくりしました。急にお母さんがなつかしくなり、涙をいっぱいためて息をころしていました。
夜が更けてから、狐は一生懸命に箱の蓋をもちあげてみました。石でものっかっているとみえて、蓋を持ちあげるたび、ごろっごろっと石が少しずつ動いている樣子です。狐は根氣よく蓋を持ちあげて、とうとう長いことかかって扇子がたに、箱の蓋をずらすことが出來ました。そっと首を出しますと、あたりはうすぐらいのです。かすかに障子の破れから月の光がさしている樣子なので、狐はやっとの思いで土間へはい出す事が出來ました。
人間はとてもおそろしい動物だとお母さんがいっていたけれど、本當だと思いました。だから、自分達の仲間は晝間は穴の中にひっこんでいて、人間にみつからないようにしているのだなと思いました。
狐は土間へ出て、縁の下からそとへ出ることが出來ました。まんまるいお月樣が高くのぼって、山の方でなつかしい梟の啼く聲がしています。
祖谷《いや》の山々が、こんもりとしていて、六兵衞よ、お母さんがとても心配しているから、早くかえっておいでといっているようにみえました。狐は急におなかがへってきましたし、頭のこぶは、しいたけみたいに大きくもりあがっていてとても熱をもっていました。
よろよろと歩いていますと、ある家のところで、もう、もう、もう、と、牛が啼いていました。
「ああ、桑助さんの家の赤兵衞さんだな。」と、狐が牛小舍の前へ來て「こんばんわ。」と聲をかけました。
すると、眠れないでいたとみえて、赤兵衞は口をもぐりもぐりうごかしながら、
「ああ、こんばんわ。どうしました。河口まで行ってみたのかね。」
と、やさしく牛はたずねるのです。
狐はひどいめにあって、いままで箱の中にいた話をしますと、
「それは氣の毒でしたね。人間というものは何とも勝手なもので、わしらのようなものまで、尻をひっぱたくのだからいやになるのさ。わしだって、たまには、からだのだるい時もあるのだが、何にしても、一日も無駄にはやすませてくれないでねえ……無理な仕事をする時、わしは時々、泣くこともあるのさ。いくらこんな生れあわせだといっても、これも神さまのおぼしめしで、こんなものに生れてきているのだもの、一つだってわしは惡いこともしたことはないのに、尻をぴしりツぴしりツとむちでなぐられる時は、つくづく泣きたくなってしまうよ。生れあわせで仕方がないけど、お前さんのように身輕るに山の中で自由に住める身がうらやましいさ……。」
と、いいます。狐も何だか牛がかわいそうで仕方がありませんでした。
「ほんとに赤兵衞さん、そうですね。わたしたちだって、人間だって、そうながくは生きられないのだから、嘘なんかいわないで、たいらに世の中をくらしたら、それが一番いいですね。あなたは、さっきから口をもぐもぐしていますが、何をたべているンですか。」
「別に何もたべてはいないのですよ。夕方たべたわらをいま食べなおして、胃からもどしているンです。」
「今夜はいい月夜ですね。」
「ああ、わたしは夜が一番樂しみです。人間がねてしまうと、もうわたしはひとりで何を考えてもいいのですからね。尻をひっぱたく人もないし、一番樂々とします。」
狐はほろりとしました。こんなに王樣のようなからだをしていても、自分たちよりつらいことがたくさんあるのだなと同情しました。
「わたしは、このまま山へかえってしまえば、もう二度と里へはおりて來ませんけれど、元氣でいて下さい。そのかわり、夜の夜中に、山の上で、わたしは時々うたをうたってあげましょう。あああの時の六兵衞狐は元氣だと思って下さい。――ほら、かすかに梟がないているでしょう。あの木のそばにわたしの巣があるのです。きっときいて下さい……。」
六兵衞狐は、氣のいい正直者の牛と別れて、淋しい山道を祖谷《いや》の山の中へいそいそと登ってゆきました。
「ああ助かってよかった。何といっても自分の天地が一番いい。おかあさんはどんなに喜んでくれるだろう。」
六兵衞は腹のへったのも忘れて、まるで飛ぶようにしてお山へかえりました。晝間の雨はからりと晴れて、まるで晝のように明るいお月樣が山や森を照し
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