生涯に一度位は父母を驚かしたいものだと、常次はとらぬ狸の皮算用ばかりしてゐる。
黄昏
つゆは娘の甲斐子から三圓の小遣ひを貰つた。甲斐子はきまつたやうに、非常時だから大切に使はなくてはいけませんよと云ふのである。つゆは朝の焚きたての御飯をうんとたべて、娘や女中が掃除をしてゐる間に、臺所で二つ三つ握り飯をつくつた。その握り飯を急いで散紙につゝんで、肩掛けの下へかくして「それでは淺草へお參りして來ますぞな」と云つて戸外へ出て行つた。つゆは家を出ると何かしら吻つとするのである。娘はきげんが惡いとよく小言を云つた。お母さんは、何故佛樣を拜まないのですか、たまには寺へ行きなさい。たまには庭の花の手入れぐらゐはするものですよと云ふのである。つゆは佛樣を拜むことはきらひであつた。長い間連れ添つたつれあひに七年前に死別したのだけれど、死んだ良人が小さい佛壇の中へ來てゐるとは思へなかつたのだ。時々甲斐子が腹をたてながら佛壇を掃除をしてゐるけれど、佛壇の中は娘の云ふやうな、つれあひの魂が來てゐる風にも思へない。朝々茶を淹れて、熱い御飯を佛壇にそなへるのだけれど、それとても、時々、つゆは忘れ勝ちになつてゐる。つゆは今年七十五歳である。つゆは百まで生きたいと思つた。
娘が三圓の小遣ひをくれたので、つゆは淺草へ遊びにゆかうとふつと考へてゐた。熱い握り飯を肩掛けの下に入れて、薄陽の射してゐる街を歩くのはいゝ氣持である。省線に乘つてからは、つゆは窓向きにクッションの上に坐つて、走る窓外をぢつと眺めてゐた。つゆは遠い以前、つれあひといろいろな旅をしたことを思ひ出してゐた。車窓からは、菊の咲いてゐる小學校があつたり兵隊が出征してゐたり、色々な景色が見渡された。上野で降りて地下鐵で、つゆは淺草へ行つたのだけれど、觀音樣の方へはゆかないで、つゆは駒形橋を渡つて交番のそばのかもじ屋へ這入つて行つたのだ。半年も前に頼んでおいたかもじを取りに行つたのだけれど、かもじ屋では息子が出征してしまつてわからないと云ふので、夕方までに探して貰ふことにして、つゆはぶらぶら松屋の方へ戻り、松屋の屋上へ上つて行つた。空はよく晴れてゐる。十二月のデパートは人がいつぱいであつた。つゆは人ごみに押されながら、反物の賣場や、男の洋服地の方へ行つてみた。つゆのつれあひは昔、男物の洋服地を賣つてゐたので、そんな賣場をみて歩くのは非常に愉しみであつた。昔は玉羅紗とかアルパカだの、カシミヤだのの、いゝウール地が澤山あつたものだが、この頃は手に取つてみると、ぞつとするやうな寒い手ざはりのウール地ばかりであつた。つゆは洋服を着た男の人形の立つてゐる臺の處へ腰を掛けてしばらく休んでゐた。うつらうつら眠たくなるやうな疲れがきて躯がぐつたりしてゐる。たいへんな人ごみですねえ‥‥誰かがさう云つて、つゆのそばへ來て腰をかけた。つゆはふつと眼をあけてみると、自分と同じぐらゐの汚ないお婆さんが、ねんねこで赤ん坊を背負つて自分のそばへ腰を掛けてゐた。「師走だから、買物で大變ですね」つゆは話相手が出來たので、急に元氣になり、前を通つてゆく人間の品定めなんかをして、二人でぼそぼそしやべつてゐた。おばあさんは、つゆに炙のうまいひとがゐるけれど、炙をすゑてみる氣はないかと尋ねた。つゆは炙をすゑるのは好きであつたので、そのおばあさんの案内で吉原の近くだと云ふ炙をすゑる家へ行つてみた。つゆは、七十五歳で、ほんとうは老人の一人歩きは警察でも注意されてゐるので、外に遊びに出たくても中々甲斐子が出してくれないのであつたけれど、つゆはこのごろ娘の名刺を澤山持つて歩くことにしてゐた。自動車にはねられても、道に迷つても名刺を出しさへすれば人がちやんと案内をしてくれると思つたからである。つゆはどこへ行つても娘の話をした。炙點師の處へ案内してくれるおばあさんにもつゆは甲斐子の名刺を一枚出して、娘は小説を書いてゐますぞなと云ふのである。おばあさんは小説と云ふものを知らないので、たゞ、大きい名刺を貰つて、浪花節語りでもあるのかと思つてゐる樣子である。つゆは腹が空いたので握り飯をたべたかつた。隨分歩いて腰が冷えこんだのか、下腹が痛くてしくしくうづきはじめてゐた。何處かで熱い茶がほしいと思つたので、つゆはおばあさんをさそつて小さいミルクホールへ這入つた。つゆは貧し氣なおばあさんを、妹のやうにふびんに思つたのだ。何かおいしいものを食べさせてやりたいと思つた。「何でも云ひませんか、何でも食べませうや」と云ふと、そのおばあさんは雜煮を食べたいと云つた。つゆは汚れた白いまへだれをしてゐる男に、雜煮を二杯註文して、やがて運ばれて來た雜煮の中の、紅いのの字の模樣のついたかまぼこをおかづにして握り飯をひろげた。つゆは愉しくて仕方がなかつた。自分もこのおば
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