ころへ電話かけて見なくちゃア……」
 勘三は、そう言って、青いハンドバッグの財布の中から五銭玉一つ出して、ガレージのそばの自動電話へ這入って行った。
「もしもし……お菅さん? ねえ、厄介なことなンだ。そうさ。家庭争議を起しちまって、それも啓坊の事なンだけど、君ンところで二三日預かってくンないかねえ……ん、そりゃア困るなア、じゃお蓮《れん》さんの所へ置いとくか、ん、新所帯《しんじょたい》で気の毒だけど、何しろ意地を曲げてしまって、啓坊は可哀想だけど、姉さんがどうしても憎いっていうんだ。――だらしがないンでねえ、あのひとも……」
 勘三が自動電話から出てくると、啓吉が白目を張りあげて大粒の涙を溜めていた。
「心細がらなくったっていいよ、中の叔母さんは事務所の連中と明日はハイキングだっていうんだ。だから小さい叔母さんとこへこれから行ってみよう」
「…………」
「大丈夫だよ、――何だ男の子の癖に」
「ねえ、僕、お母さんとこへ帰りたいや!」
 啓吉はそういって、自動電話の後へ回り、雨に濡れたまま声も立てずに泣き出した。

       八

 蓮子は十七歳の夏、姉の寛子の所をたよって上京して来ると、すぐ姉の良人、松山勘三の友人瀬良三石と結婚してしまって、三人の姉達に呆れた女だと叱られてしまった。で、それっきりこの半年ばかり、どの姉達にも御無沙汰してしまって、三石と夫婦気取りで、その日その日をおくっていたのだ。
 瀬良三石は、洋画家で、毎年帝展へ二三枚は絵を運ぶのであったが、落選の憂き目を見ること度々で、当選したのは、七八年前に軍鶏《しゃも》の群を描いてパスしたと言っているが、これとても当にはならない。当人はヴァンドンゲンを愛していて、青色の人物をよく描くのだが、勘三に言わせると「空家に住む人物」だと酷評するので、三石は、十七歳の蓮子をかっぱらうと同時に、勘三の所へはちっともやって来なくなった。

「啓坊、泣く奴があるか。お前のお母さんもだらしがないけど、お前もだらしがないぞッ」
 勘三は、ひどく空《す》きっ腹で、二三軒回った新聞社が駄目だったし、雨は土砂《どしゃ》降りの吹き流しと来てるし、懐は一文なしの空《から》っけつと、朝から御承知のすけ[#「すけ」に傍点]で出て来ているのだ。で、背に腹はかえられぬの轍《てつ》を踏んで、有楽町のガード横丁まで引っかえして来ると、小八というお
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