た。より江は蛙がゐなくなつたと騒いでゐました。戸外では、まぶしい程朝陽があたつて、青葉は燃えるやうに光つてゐました。より江が庭でほうせん花の赤い花をとつて遊んでゐると、店の土間で自転車を洗つていたお母さんが、
「よりちやんや! よりちやん一寸おいで。」と呼びました。
 より江は何かしらとおもつて走つてゆきますと、昨夜のをじさんが、バナゝ籠をさげて板の間へ腰をかけてゐました。お母さんはにこにこ笑つて、
「わたしは、まア、心のうちで泥棒ぢやなかつたかしらなんて考へてゐましたんですよ」といつてゐました。
 をぢさんは、新らしく来たこの県の林野局のお役人で、山から降りしなに径に迷つてしまつて、雨で冷へこんで、腹を悪くしたといつてゐました。
「ほんとうに、薬を飲んだときはやれ/\とおもひましたよ。これはお土産ですよ。」
 さういつて、紐でくゝつた傘とバナゝの籠を土間に置いて、より江の頭をなぜてくれました。より江はをぢさんが、如何にもうれしさうに声をたてゝ笑ふ皓い歯をみてゐました。お母さんは自転車を洗ひ終ると、店先きの日向に干して、をぢさんに茶を淹れて出しました。
「おや、雨蛙がゐるよ。」
 をぢさんがひよいと股をひろげると、をぢさんの長靴の後に昨夜の雨蛙が呆んやりした眼をしてきよとんとしてゐます。より江は雨蛙をどこか水のあるところへ放してやらうとおもひました。そつと両手で挾んで、往来の窪みへ置いてやりましたが、蛙は疲れてゐるのか、道ばたに呆んやりつくばつたまゝでゐますので、より江はひしやくに水を汲んでぱさりと、蛙の背中に水をかけてやりました。蛙はびつくりして、長く脚を伸ばして二三度飛びはねてゆきましたが、より江がまばたきしてゐる間に、どこかへ隠れてしまつたのか、煙のやうに藪垣の方へ消えて行つてしまひました。
 乗合自動車が地響きをたてゝ上つて来ました。をぢさんは、
「さアて、山へ行くかな‥‥」
 さう云つて立ちあがりますと、より江のお母さんは、赤い旗を持つて土間へ降りてゆきました。より江もひしやくを持つたまゝお母さんの後へついて、表の日向へ出て行きました。



底本:「林芙美子全集 第十五巻」文泉堂出版
   1977(昭和52)年4月20日発行
初出:「赤い鳥 8月号(終刊号)」
   1936(昭和11)年8月
入力:土屋隆
校正:noriko saito
2006年12月30日作成
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