穂子はたまらなくなって裏口へ出て行った。半晴半曇の柔《やわらか》い晩春の昼の陽が河の上に光りを反射させている。水ぎわに降りて行った。もう、追いつめられてしまって、どうにもならない気持ちだった。「死ぬッ」千穂子は独りごとを云った。死ねもしないくせに、こころがそんな事を云うのだ。肉体は死なないと云う自信がありながら、弱まった心だけは、駄々をこねているみたいに、「死ぬッ」と叫《さけ》んでいる。
 四囲《あたり》は仄々と明るくて、どこの畑の麦も青々とのびていた。
 苔《こけ》でぬるぬるした板橋の上に立って、千穂子は流れてゆく水の上を見つめた。藁屑《わらくず》が流れてゆく。いつ見ても水の上は飽《あ》きなかった。この江戸《えど》川の流れはどこからこんなに水をたたえて漫々《まんまん》と流れているのだろうと思うのだ。――薄青い色の水が、こまかな小波《さざなみ》をたてて、ちゃぷちゃぷと岸の泥《どろ》をひたしている。広い水の上に、尾《お》の青い鳥が流れを叩くようにすれすれに飛び交っていた。後の堤の上を、自転車が一台走って行った。千穂子はさっきの、耳のない男の後姿をふっと思い出している。
 どうしても、死ぬ
前へ 次へ
全28ページ中26ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
林 芙美子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング