のり巻きや、夏みかんを入れてさげてゐた。地下鉄で浅草の終点まで行き、松屋の横から二天門の方へ歩いて、仲店の中へはいつて行つた。
 りよは、浅草と云ふところは、案外なきたい[#「きたい」に傍点]はづれな気がした。朱塗りの小さい御堂が、あの有名な浅草の観音様なのかとがつかりしてゐる。昔は見上げるやうに巨きいがらんだつたのだと、鶴石が説明してくれたけれども、少しも巨きかつたと云ふ実感が浮いて来ない。只、ぞろぞろと人の波である。この小さい朱塗りの御堂を囲んで人々がひしめきあつてゐる。トランペットやサキソオホンの物哀しい誘ふやうな音色が遠くでしてゐた。公園の広場の焼け跡の樹木は、芽をはらんだ梢を風に鳴らして、ざわざわと荒い風にあへいでゐる。
 古着市場のアーチを抜けると、食物屋のバラックが池のぐるりにぎつしり建つてゐた。油のこげつく匂ひや、関東煮の大鍋の湯気が四囲にこもつてゐた。留吉は箸の先に盛りあげた黄いろい綿菓子を鶴石に露店で買つて貰つて、しやぶりながら歩いてゐる。――かりそめのめぐりあひとは云へ、りよは十年も一緒に鶴石とゐるやうな気がして力丈夫だつた。少しも疲れなかつた。映画館やレヴィュー小舎が軒をつらねてゐる。アメリカ風な絵看板が、みんな唸つて迫つてくるやうな大きい建物の谷間を、三人はぶらぶら歩いた。「雨が降つてきたね」鶴石が片手をあげたので、りよも空へ顔をむけた。大粒の雨が降つてきた。折角の遊山も台なしだと思ひながら、りよ達はメリーと硝子行灯の出てゐる小さい喫茶店にはいつて行つた。思ひがけなく桜の造花が天井からさがつてゐるのが案外寒々しく見えた。紅茶を取つて、りよはのり巻きやパンを出して鶴石や留吉に食べさせてやつた。鶴石は煙草を吸はなかつたので食事も案外早く済んだが、雨は本格的になり、雨宿りの客もいつの間にかいつぱいたてこんできた。
「どうしませう? 随分な雨になりましたね……仲々あがりさうもないわ」「一寸待つて小降りになつたら送つてあげるよ」送つてあげると云ふのは、稲荷町のりよの家の事であらうかと思つた。りよの家へは送つて貰つたところで、鶴石を家へあげるわけにもゆかないのである。同郷の知りあひへ、部屋がみつかるまで腰かけにおいて貰つてゐるのだつた。寝る時は玄関の二畳にやすむので、自分の部屋といふものがない。りよは稲荷町よりも、四ツ木の鶴石のところへ行きたかつたのだけれども、鶴石の小舎には、満足に腰掛もないのでしみじみと落ちつくといふわけにもゆかない。
 りよは鶴石に見られないやうに、買物袋の中の財布をしらべてみた。七百円ばかりの金があつたので、これで、どこか雨宿りさせてくれる宿屋のやうなところはないものかと思つた。「どこか、宿屋みたいなところはないでせうか?」宿屋はないかと云はれて、鶴石は妙な顔をしてゐた。りよは、遠慮しないで、自分の家のことを正直に話した。「だから、私、このまゝで帰りたくないンですの。映画も見て、小さい旅館でもあつたら、そこで、休んで、おそばでも取つて貰つて、愉しくさよならしたいンですけど……ぜいたくかしらね」鶴石も同じやうな事を考へてゐたと見えて、自分の上着をぬぐと、それを留吉の頭からかぶせて、りよと雨の中へ出て行き、近くの映画館の軒下へ走り込んだ。――映画は椅子もなく立つて見なければならなかつたので、人いきれと立つてゐるのでへとへとになり、留吉はいつか鶴石の背中でぐつすり眠つてしまつてゐた。早く旅館へ行つた方がいいと云ふので、一時間位して、映画館を出ると篠つく雨の中を旅館を探して歩いた。芭蕉の葉を叩くやうな音で、雨は四囲に激しく鳴つてゐる。やつと、田原町の近くに小さい旅館を見つけた。
 節穴だらけのぎしぎしとなる廊下の突きあたりに狭い部屋があり、そこへりよ達は通された。べとついた柔い畳が、気持ちが悪かつた。
 りよは濡れたソックスをぬいだ。留吉は床の間の前にごろりと寝ころがして置いた。鶴石が汚れた座蒲団を留吉の枕にしてやつてゐる。樋もないのか、膨脹した水の音が、ばしやばしやと軒にあふれて滝になつてゐた。鶴石は黄いろくなつてゐるハンカチを出して、りよの髪の毛を拭いてやつた。自然なしぐさだつたので、りよも何気なくその好意に甘えた。雨音のなかに眇《すが》めるやうな幸福な思ひがりよの胸に走つてくる。なぜ愉しいのだらう……。長い間の閉ぢこめられた人間の孤独が、笛のやうにひゆうと鳴るやうな気がして来る。「こんな処で、食べ物を取つてくれるかな?」「さうね、私、訊いてくるわ……」りよは廊下へ出て茶を持つて来た洋服姿の女中に尋ねてみた。中華そばならとれると云ふので、それを二つ頼んだ。
 茶を飲みながら、二人は火のない箱火鉢を真中にして暫く向きあつてゐた。鶴石は足を投げ出して、留吉のそばに横になつた。りよは少しづつ昏くなりかけてゐる雨空を窓硝子越しに見てゐた。「おりよさんはいくつだね?」突然鶴石がこんな事を聞いた。りよは顔を鶴石の方へ向けてくすりと笑つた。「女の年は判らないよ。二十六七かね?」「もう、お婆さんですよ。三十です」「ほう、自分より一つ上だ……」「まア! 若いのねえ、私、鶴石さんは三十越してンだと思つたわ」りよは珍しさうに鶴石の顔をみつめた。鶴石は眉の濃い人のいゝ眼もとをちらと染めるやうに輝かせて、投げ出した自分の汚れ足をみてゐた。鶴石も靴下をぬいでゐる。
 雨は夜になつてもやまなかつた。
 遅くなつて、冷えた中華そばが二つ来たので、りよは留吉をゆり起して、眠がる留吉に汁を吸はせたりした。――二人は泊つて行くことに話をきめた。鶴石が帳場へ行つて、泊り賃を払つてきてくれた様子で、案外こざつぱりした夜具が三枚運ばれてきた。りよが蒲団を敷いた。部屋の中が蒲団でいつぱいになるやうな感じである。留吉のジャケツだけをぬがせて、厠へ用をたしに連れてゆき、蒲団の真中に寝かせた。「夫婦者だと思つてるね」「さうね。お気の毒さまですね……」りよは蒲団を見たせゐか、何となく胸さわぎがして、良人に済まないやうな気がしてゐる。さきの事は判らないけれども、雨が降るから、仕方なくこんな風になつたと思ひたかつたし、心で、そンな云ひわけをしてゐた。
 夜中になつて、りよがいゝ気持ちにうとうとしてゐると「おりよさんおりよさん」と、鶴石の呼ぶ声がした。りよがはつと枕から顔を挙げると、「おりよさん、そつちに行つてもいゝかい?」と鶴石がさゝやくやうに云つた。雨脚が少し弱まつて、軒の水音もたえだえにきこえる。「いけないわ……」「やつぱり、いけないかね?」「えゝ、困るわ……」鶴石は深い溜息をついた。「ねえ、鶴石さんは、私、聞かなかつたけど、奥さんはどうなすつて?」「いまゐないよ」「前はあつたの?」「あゝ」「その方、どうなすつて……」「兵隊から戻つたら、別の男と一緒に暮してゐたよ」「貴方、怒つたでせう?」「うん、まアね、やつぱり怒つたね。――だけど、行つちまつたものは仕方がないね……」「さうね、でも、よくあきらめられたわね……」鶴石はまた暫く黙つてゐた。「何か話しませうか?」「うん、別に話をする事もないよ。……あの、中華そばはまづかつたなア」「……えゝ、本当ね、一杯百円だなンて……」「君達も、部屋があるといゝね……」「えゝ、鶴石さんの近くにないかしら……私、鶴石さんのそばに引越したいわ……」「まづ、ないね。そりやア、あつたらすぐ話してやるさ。――おりよさんは偉いなア」「あら、どうして?」「偉いよ。女はみンなだらしがないつてわけでもねえンだな」りよが黙つた。一緒に抱きあつてみたい気がした。そして……。りよは鶴石に知れないやうに、少しづつ、ちぎつて捨てるやうな苦しい溜息をついた。腋の下が熱くなつて来た。家をゆすぶるやうにトラックが往来を走つて行く。「戦争つて奴は、人間を虫けらみたいにしちまつたね。大真面目で狂人みたいな事をやつてたンだからなア。自分は二等兵で終つたが、よく殴られたもンだよ。もう、二度なンか厭だなア……」「鶴石さん、お父さんやお母さんは……」「田舎にゐるよ」「田舎は、どこ?」「福岡だよ」「お姉さんは何してるの?」「おりよさんみてえに独りで、子供二人そだててる。ミシン一台持つて洋裁やつてるよ。亭主は華中で早く戦死したンだ……」鶴石は、少しばかり気が持ちなほつたのか、話声もおだやかになつた。
 りよはかうした夜の明けてゆくのがをしまれてならない。鶴石があきらめてくれたのだと思ふと気の毒な気がした。まんざら始めから知らない人間なら、かうしたことも何でもないのかも知れない。鶴石は、りよの良人については一言も訊いてくれようとはしなかつた。
「あゝ、何だか眼がさえちやつて寝られねえなア……どうも、馴れねえ事はするもンぢやねえよ……」「あら、鶴石さん、貴方、遊びに行つた事はないの?」「そりやア、男だもの、あるさ。玄人ばかりが相手だ」「男は、いゝわねえ……」りよは、男はいゝわねと、つい口に出したが、さう云ふか云はないうちに、鶴石がさつと起きて来て、りよのそばへ重くのしかゝつて来た。蒲団の上からであつたので、りよは男の力いつぱいで押される情熱に任せてゐた。りよは黙つたまゝ暗闇の中に眼をみはつてゐる、鶴石の黒い頭がりよの頬の上に痛かつた。ぱあつと、瞼の裏に虹が開くやうな光が射した。りよの小鼻のあたりに鶴石の不器用な熱い唇が触れる。
「駄目か……」りよは蒲団の中で脚をつつぱつてゐた。ひどい耳鳴りがした。「いけないわ……私シベリアの事を考へるのよ」りよは思ひもかけない、悪い事を云つたやうな気がした。鶴石は変なかつかうで蒲団の上に重くのしかゝつたまゝぢいつとしてしまつた。頭を垂れて、神に平伏してゐるやうな森閑としたかつかうだつた。りよは一瞬、済まないやうな気がした。暫くして力いつぱいで鶴石の熱い首を抱いてやつた。
 二日ほどして、りよは、留吉を連れていそいそと四ツ木の鶴石のところへ出掛けて行つた。何時もその時刻には、小舎の硝子戸のところに、鉢巻をして立つてゐてくれる鶴石が今日は見えなかつた。りよは不思議な気がして、留吉をさきに走らせてみた。「知らない人がゐるよツ」留吉がさう云つて走つて戻つた。りよは胸さわぎがした。入口のところへ行つて小舎の中をのぞくと、若い男が二人で、押入れの鶴石のベッドを片づけてゐるところである。「何だい、をばさん……」眼の小さい男が振り返つて尋ねた。「鶴石さんはいらつしやいますか?」「鶴さん、昨夜、死んぢやつたよツ」「まア!」りよは、まア! と云つたきり声も出なかつた。煤ぼけた神棚にお光《あか》りがあがつてゐるのも妙だと思つたけれども、まさか鶴石が死んだ為とは思はなかつた。
 鶴石が、鉄材をのつけたトラックに乗つて、大宮からの帰り、何とかと云ふ橋の上から、トラックが河へまつさかさまに落ちて、運転手もろとも死んでしまつたのだと教へてくれた。今日、会社のものや、鶴石の姉が大宮で鶴石の死骸をだび[#「だび」に傍点]にふして、明日の朝は戻つて来ると云ふのである。りよは呆然としてしまつた。呆んやりして、二人の男の片づけ事を見てゐると、棚の上にりよが初めの日に買つて貰つた茶袋が二本並んでゐた。一本は半分ほどのところで袋が折り曲げてあつた。「をばさん、鶴さんとは知り合ひかい?」「えゝ、一寸知つてるもンですから……」「いゝ人間だつたがなア……何も大宮まで行く事はなかつたンだよ。つい、誘はれて昼過ぎから出掛けちやつたンだ。わざわざ復員して来て、馬鹿みちまつたと云ふもンだなア……」肥えた方が、山田五十鈴のヱハガキをはづして、ぷつとヱハガキの埃を口で吹いた。りよは呆んやりしてしまつた。七輪もやかん[#「やかん」に傍点]も長靴もそのまゝで、四囲は少しも変つてはゐない。黒板に眼がいくと、赤いチョークで、リヨどの、二時まで待つた、と下手な字で書いてあつた。りよは留吉の手を取つて、重いリュックをゆすぶりあげながら、板塀を曲つたが急にじいんと鼻の奥がしびれる程熱い涙があふれて来た。「をぢさん死んぢやつたの?」「うん……」「どこで死んだンだらう……」「河へはまつちやつたン
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