してひつそりしてゐました。
 いよいよソヴェートロシヤ領です。
 青い空に真赤な旗が新鮮でした。赤い貨車が走つてゐる。杳々とした野が続いて、まるで陸の海です。私はロシヤへ這入つてから二拾円だけルーブルに換へました。列車の中に国立銀行員が鞄を持つてやつて来ます。国立銀行員だなんて云つても、よぼよぼの電気の集金人みたいな人でした。印刷したてらしいホヤホヤのルーブル紙幣を貰つたのですが、まるで、煙草のレッテルみたいで、麦の束が描いてありました。その紙幣を九枚に小銭を少し、丁度四拾銭程換算賃をとられました。夕方、時計は七時ですが、明るい内にハラノルへ着きました。小駅で、発車を知らせるのに小さい鐘を鳴らしてゐました。ところで、まづ、私の寝室をこゝに書きませう。一室に四人づつで、一ツ列車に八ツ室があります。私は、一等も二等も覗いて見ましたけれど、シベリヤを行かれる方には三等をお薦めしたいと思ひます。けつして住み悪くはありませんでした。初め、列車ボーイに、日本金の参円もやればいゝと聞いてゐました。つまり日が五拾銭の割でせうが、私は何を考へ事をしてゐたのか、思はず五円もやつてしまひました。大変気前のいゝところを見せたわけです。――こゝではルーブルでチップをやつてもボーイは決して有難い顔をしないでせう。日本金でやれば、国外で安いルーブルが買へるからださうです。
 私の部屋のボーイは、飛車角みたいにづんぐりして、むつつり怒つたやうな顔をした青年でした。帽子には油じみた斧と鎌の、ソヴェートの徽章がついてゐます。五円やつたからでもないでせうけれども、大変深切でした。私は二日間で私の名を覚えさせました。帽子をぬぐと額が雪のやうに白くて、髪は金色です。モスコーに母親とびつこの弟が居ると云ふ事が判りました。私にパリーへ行つて何をするのだと聞きますので、お前のやうな立派な男をモデルにして絵を描くのだと云つたら、紙と鉛筆を持つて来て描けと云ふのです。私はひどく赤面しました。日本の旅は道づれ世は情と云ふ言葉を、今更うまい事を云つたのもだと感心してゐます。私の隣室は、ドイツ商人で、ボーイは、ゲルマンスキーの奴はブルジョワだと云つて指を一本出して笑つてゐました。何でブルジョワだと聞くと、タイプライターも、蓄音機も、写真機も持つてゐるからだと云つてゐました。此隣りのゲルマンスキーも仲々愛想のいゝ人でしたが、その同室にゐるロスキーは旅行中一番深切でした。私の部屋はまるで貸しきりみたいに私一人です。だから、私は朝起きると両隣りからお茶に呼ばれるし、トランプに呼ばれるし、何しろ出鱈目なロシヤ語で笑はせるんだから、可愛がつてくれたのでせう。左隣りはピエルミで降りる若い青年と、眼の光つた四十位の男と乗つてゐました。私此ピエルミで降りると云ふ青年がとても好きで、よく廊下の窓に立つては話をするのですけれど、何しろ雲つくやうな大男なのです。あまり背が高いので、話が遠くて、よくかゞんでもらつたのですが、ボロージンとはこんな男ではないかと思ふ程、隆々とした姿で、瞳だけが優しく、青く澄んでいました。

 5信
 十六日の夕方、ノボォーシビルスクと云ふところへ着きました。そろそろ持参の食料品に嫌気がさして、不味い葡萄酒ばかりゴブゴブ呑んでゐました。起きても寝ても夢ばかりです。私は一生の内に、あんなに夢を見る事は再びないでせう。まるで呆んやりとして夢の続きばかりのやうでした。ノボォーシビルスクでは十五歳位の男の子が一人乗つて来ました。勿論隣室のピエルミ君の上のワゴンに寝るんでせうが、来るとすぐ私の部屋にはいつて来て、ヤポンスキーと呼びかけて来るのです。長い事かゝつて聞いた事は、母親がモスコー婦人会の書記のやうな事をしてゐて、それに一年振りで会ひに行くのだと云ふ事でした。
 子供の母親の名前は、カピタリカーパと云ふ人ださうです。僕はピオニエールだよ、さう云つて元気に出て行きましたが、兎に角シベリアの三等列車は呑気で面白い。十七日、昼食の註文を朝のうちに取りに来ましたので、食べる事にして申し込みました。申し込むと云つたところで、扉をニューと開けて食堂ボーイが、「アベード?」と覗きます。それに承知《ダア》とか、不承知《ニエット》とか答へればいゝんで、訳はないのです。大変昼が楽しみでした。ピエルミ君も初めて、註文したらしく、指をポキポキ鳴らして嬉しさうでした。窓に額をくつつけて、吹雪に折れさうな白樺のひよろひよろした林を見てゐると、ピエルミ氏はタンゴの一節を唄つてくれたのですが、ロシヤ人はどうしてかう唄が好きなのでせう。いつそ此人の奥さんになつて、ピエルミで降りてしまはうかなんぞやけくそな事を考へたのですが、何しろ言葉が分らないし、私とは二尺位も背丈が違ひ過ぎるやうな気がしましすし、ともあれ諦める事にきめましたが、ピエルミまではまだ大丈夫日数があるので、楽しみです。甘いつて、まあ……笑つて下さい。自分で何か考へて行くか、空想してゆくか、本当は退屈な旅なのですよ。これで一二等に乗つてゐる人達はどんな事をして暮らしてゐるのでせうか。
 お昼は、ピエルミ氏が先頭でゲルマンスキーと相客のミンスク氏も一緒です。此ミンスク氏の名は、ミンスクで下車するといふので、私はいつもミンスクと呼んで笑はせてゐました。(ミンスクはポーランドの国境に近い方)――まづ、運ばれた皿の上を見ますと、初めがスープ、それからオムレツ(肉なし)ウドン粉料理(すゐとんの一種)プリン、こんなもので、東京の本郷バーで食べれば、これだけでは二拾銭位のものでせう。――悪口を云ふのではありませんよ。それがこゝでは三ルーブルです(約三円)。驚木桃の木山椒の木とは此事でせうか。思わず胸に何かこみあげて来るやうな気がしました。食べてゐる人達はと云へば、士官と口紅の濃い貴婦人が多いんです。貴婦人と云つても、ジャケツの糸がほぐれてゐるやうなのがおほかたなのですよ。――けつして労働者ではない級の女達です。インテリ級の貴婦人なのでせう。こつちの百姓の女は、絵描きが着るやうなブルーズを着こんでゐます。日本ではよいとまけの土工女がせいぜい荒つぽい仕事位に思つてゐましたが、こちらでは女達だけで長い線路をつくつてゐました。
 車窓から見た七日間のロシヤの女は、とてもハツラツと元気で、悪く云へば豚のやうになつてゐる女が多い。チエホフ型の女とか、ゴルキーの女とか、そんな女は今のロシヤにはゼイタク事なのでせう。一二等の廊下で、呆んやり同志の働きを見て、爪の化粧をしてゐるロシヤのインテリ婦人も居るのだから、ロシヤはなかなか広いものでした。――林檎が一個一ルーブル、玉子一ツ五十カペック、――まだ驚きましたのは、バイカルを過ぎた頃売りに来た、いなり寿司のやうな食料です。思はず雑誌をはふりつぱなしにして、「アジン!」と怒鳴りました。二個一ルーブルで買つて、肉を刻んだのでもはいつてゐるのだらうと、熱いやつにかじりつくと、これはまたウドン粉の天麩羅でありました。ウドン粉の揚げたのが一円だなんて、私は生れて、此様なぜいたくな買物をした記憶を持つたのは初めてです。鶏の小さい丸焼きが五ルーブル位です。とても手が出ません。牛乳が飲みたかつたし、茹で玉子が欲しかつたし、――だが、高くて手にあひませんでした。

 6信
 シベリヤの寒気は、何か情熱的ではあります。列車が停るたび、片栗粉のやうにギシギシした雪を踏んで、ぶらぶら歩くのですか、皆|毛皮裏《ツユウパア》の外套を着込んで、足にはラシャ地で製つた長靴をはいてゐます。
 ブリッヂの鉄の棒にでも、一寸手をふれれば痛い感じがします。長く握つてゐると手が凍りつくとボーイが教へてくれました。此度で一等楽しみで、プロレタリヤ的なのは、お湯が、駅々で只で貰へた事です。大きい駅に着く度に、「ハヤツサア、チャイ?」さう云つて、ボーイが私のヤカンをさげて湯を貰つて来てくれます。砂糖は私が寄附して、いつもボーイの部屋で四五人、大きな事を云ひながら飲むのです。勿論紅茶も時々は持つて行きました。煙草はみんな新聞紙に巻いて呑んでゐるやうでした。鰊くさい漁師が一人ゐて、ヤポンスキーの函館はよく知つてゐると云つて、日本を説明するのでせう。盛にゲイシャ、チブチブチブ……と云ふのです。そのチブチブが解らなかつたのですが、あとで笑つてしまひました。チブチブと云ふのはゲイシャの下駄の音の形容なのです。私が、カラカラ……と云つて見せると、さうだと云つて、又、皆に説明するのです。何の事はない信州路行く汽車の三等と少しも変りがありません。――十八日の夜。オムスクと云ふ所から、赤ん坊を連れた女が部屋に乗りました。うらなりみたいな若いお母さんでしたが、此子供はまるで人形です。人見知りしないで、すぐ私のベッドへ来て、キャッキャッと喜んでゐました。ワ―リャと云ふ子です。此ワーリャは可愛かつたのですが、ワーリャの母親は、一々物を呉れ呉れと云つて嫌でした。私は、三日月と云ふ日本の安い眉墨を持つてゐたのですが、「お前はパリーへ行けば買へるんだから、それを呉れ」と云ふのです。外の者ならパリーにもあるでせうが、娘の頃から使ひつけてゐるもので、何としてもやる訳にゆかず、「あんたの髪の毛はブロンドぢやないか、眉だけは真黒いのをつけてをかしいよ、ホラ私の髪の毛と眉は黒いから、これをつけるのだ」さう何度云ひ聞かしても、如何にも舌打ちして欲しいげなのです。恨みがかゝつてはおそろしいと、半分引き破つて呉れてしまひました。
 日本では舌を鳴らすと、チエッとか何とかの嫌な意味ですが、ロシヤでは、ホーウとか何とか、いゝ場合の意味らしい。――ワーリャはよたよた歩いてきて、私の頬へ唇をさしよせて来ます。――時々、隣室のゲルマンスキーがレコードをかけます。寒い一眸の野を走る汽車の上で、音楽を聞いたせゐか、涙があふれて仕様がありませんでした。ロシヤ人と云ふ人種は、いつたいに音楽が好きなのでせう。トロイカと云ふ映画を御覧になりましたか。タンゴなぞは禁止されてゐると云つても走つてゐる汽車の中です。やるせなげな唄を耳にします。窓外は、あの映画に出て来る馬橇が走つてゐます。此ゲルマンスキーの、レコードが鳴り出しますと、まるで蜂の巣のやうに扉があいて、ゲルマンスキーの部屋の前に集ります。皆の顔が生々して来ます。実際音楽が好きなのでせう。


 ところで前の食堂の話なのですけれど、半年ばかり前までは、強制的に食事費を取られてゐたと云ふ話でしたが、私の時は、食べても食べなくても良かつたので、大変楽でした。
 隣室のピエルミ氏は、毎日詩集のやうなものを読んでゐます。ゴルキーやチエホフや、トルストイや、ゴーゴリなんぞ読んだ事があると云つたら、ピエルミ氏は、お前にロシヤ語が話せればもつと面白い事が出来るのにとくやしがつてくれました。ところで、或時ピエルミ氏に、「あの食堂はブルジョワレストランぢやないか」さう聞いた事があります。で、私の部屋にいつもパンを貰ひに来る、まるで乞食みたいにずるいピオニールの事を話しました。
「なぜ、食堂で飯をあたへないのでせう」
 ピエルミ氏は、子供つぽく笑つて、わからないと云ひました。実さい、一二度の事ならば、何でもないのですが、私が食べる頃を見計らつては、「ヤポンスキーマドマゼール、ブーリキ」なんぞと云つて、腹をおさへて悲しげにしてみせます。私は、もう苦味《にが》い葡萄酒でも呑むより仕方がない。岩のやうになつたパンと、林檎を持つて行かせて怒つた顔をしてみせました。私の食料品も、おほかたは人にやつてばかりで、レモン一個と砂糖と、茶と、するめが残つたきりです。十九日は、また昼食を註文して今度はミンスク氏と並びました。スープ(大根のやうなのに人参少し)それに、うどん粉の酸つぱいのや(すゐとんに酢をかけたやうなもの)蕎麦の実に鶏の骨少し、そんなものでした。昼食に出るまでは楽しく空想して、それで食べてしまふと、落胆してしまふのです。十九日の夜は、借りた枕や、シーツと毛布代を、六ルーブル払ひました。毛布と云つても、一枚の
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