胸がどきどきしました。
 ぺったんこ、ぺったんこと餅をつく音がきこえてくるようです。
 玄関で誰かが呼んでいます。おとうさんがおかあさんを呼びました。
「いまごろ、きみがわるいわね、誰でしょう」
 時計が九時を打ちました。
 おとうさんがすくっと起きて玄関へ行かれました。
「そりやア心細かったでしょう、まア、お上り下さい」
 誰かをおとうさんがあげているようです。おかあさんも出て行かれました。僕は誰だろうと耳をすましていました。
「お互にひどいめにあいましたね。寒かったでしょう、さア、どうぞ――」お客さまの声はきこえない。
「まア、大きいお魚、黒鯛ですわね」
 おかあさんの声。お魚を持ってきたのかしら。こんなにおそくお魚を持ってくるなんて変だな、どこの人なのだろう。僕は何だかこわいなと思いました。

     7

 朝起きたら、だいどころに、大きい黒鯛がかごのなかにありました。僕は、こんな黒いおさかなをみるのははじめてです。
「立派だなア」
 と僕がいいますと、宏ちゃんも起きて来て、びつくりしています。お座敷では、もうお客さまが朝ごはんをたべていました。誰だろうと思っていたら、静子がおとなりの吉田さんのおじさまなのよ、とおしえてくれました。
 吉田さんのお家には、子どもはいないのだけれど年をとったおばあさんがおられるので、早くから宇都宮へ疎開して、もうおとなりには安藤さんという人たちがひっこして来ています。吉田さんは、宇都宮でお家がやけたのだそうです。こんなことなら、東京にいた方がよかったのだ、と吉田さんは残念そうにしていました。
 吉田さんのお家では、おばあさんもなくなられたのだそうです。とてもいいおばあさんで、目の悪いひとでしたけれど、僕たちが裏庭に入って行くと、ちゃんと僕を知っていて、夏なんか、よくおばあさんにあきかんだの木箱だのもらいました。かんからをもろうと、それでメダカをすくいに行ったものです。
 木箱は、蝶蝶の標本箱にしました。
 おばあさんは、田舎の人なので、花や草の名前はよく知っていて、僕が持って行く草の名前を何でもおしえてくれました。いつだったかおとうさんと信州の山へ行って、たくさん、草を持ってかえって吉田さんのおばあさんにききました。
 まんさくだの、かしわの葉、あかしで、いぬしで、いぼた、白い花の咲くがまずみ、うつぎ、赤い花の咲くはこねうつ
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