たら死んでしまひたい」
夜になると、それでも料理店リラの内部は女のゐるなみに賑やかになつて、カンシャク玉なんぞが客のボックスの中から弾けてゐた。
「その男と来たら×××××××と来てるぢやないの、だもンだから一晩中私をいぢめてンのよ。いつそ結婚媒介所へでも行つてマネキンになつた方がいゝ位だわ」
操は、円い眼をクリクリさせて、さとみをつかまへて離さない。取りつき場もない程、すれつからしな風に見えて、芯は気弱なのかも知れない。
誰も彼も気弱な癖して自分に塀を囲んでゐるのであつた。その塀の中から、犬のやうな虚勢でもつて、誰彼となく吠えたてゝゐるのだ、塀をとつてしまへば、誰だつて、天真な美しい花園を持つてゐるのではないか。
ジャズのレコードが、十枚もまたふえると一緒に、さくらと云ふ女と、澄子と云ふ新しい女が這入つて来た。
さくらは三度目だといつてゐたが、澄子は始めてらしく、まだ肩揚げの似合ひさうな美しい少女であつた。――料理店リラの内部もまた女が変つて行くたびに客の筋もはじからはじから違つて行つて、このごろでは学生の校歌をうたふ唄が、リラの鎧戸風な窓から漏れてゐた。
「百合子さん、指輪早く売りなさいよ、そして、一日、二人で日光へでも行かない?」このごろ、ひどく黒つぽい服装になつたサトミが、冷たげな、百合子のオパルの石を見るたびに、百合子にせびつた。百合子は百合子で、「私、早くこんなところから足が洗ひたいわ。――今ごろいつたいチップがいくらくらゐになるンでせう。まるでキモノのために働いてるやうなもンぢやないの‥‥」
「仕方なしに働いてゐるのさ」
「ところでこの指輪、二三日中に片づけちやうわ、その金で日光よか、私、男の生活してる土地へ行つて、見て来てやりたいのよツ、つきあつてくれるウ」
「まア、凄い未練だなア‥‥」
「さうさア、一生懸命惚れてたンだもの、私、お粒さんみたいに、お次の恋人なンて手軽にやアいかないし、操さんみたいに、やぶれかぶれで大森修業も勿体ないわ‥‥」
「大森修業か、うまいこと云ふわねえ、ぢやア、私が大森修業をしたらどうする、軽蔑するかな‥‥」
「馬鹿! あンたが大森修業してたら、私尊敬するわよ」
澄子が、学生に取り巻かれて唄をうたつてゐる。段々、キヨウに雰囲気に染つてゐる姿は、サトミや百合子の眼に淋しく写つた。
8 「母アちやん、もう幾つ寝ると、オルガン習はせてくれるの?」
「さうね、もう三つねんねしたら、オルガンの先生ンところへ行きませうね」
「さう‥‥お祖母ちやん嘘吐きだナ、オルガンの先生なンかみンな死ンぢまつてゐないつて云つたよウ」
「それは、竜さんが、あんまりおねだりするからよ、学校から帰つたら、おとなしくしてるの、さうしたらオルガンの先生ンところへ連れてツたげますよ」
せん子に似て、子供の唇にも可愛い黒子があつた。
バンド・セールをつけた子供の手を引いて郊外の停車場まで来ると、
「では、行つて来ますよ、お母さんをお送りしたら、自動車に気をつけて真ツ直ぐに帰るンですよ。お土産を持つて帰りますからね」
「うん‥‥」
「オヤ、どうしたの、呆やりしたりなンかして、え、竜ちやん!」
「何でもないんだよツ、お父ちやんが 淋しさうだから早く帰つてねツ」
「竜さんの馬鹿、ホッホ……あンたが淋しいンぢやない‥‥」
せん子は、胸がふくれあがりさうにうれしかつた。どんなにヒクツな、いまの生活であらうとも、耐へて行かなければならないと考へるのであつた。
「ひがんでいふンぢやないが、実際お前にとつて俺はやつかい者だね」
「まア水くさい。貴方が働けるやうになつたら、私長火鉢にをさまつて、貴方をこき使つてやらうと、今からテグスネ引いてるンぢやないのよウ‥‥」
こんなたわいのない事で慰めあひながら、笑つて涙ぐむ今の二人である。
電車の中には自分の子供と同じやうなのが、雀のやうにさへづりながら沢山乗つてゐた。父親に似て音楽の好きな子供、オルガンを習はせてくれとせびる可愛い姿を思ひ浮かべると、せん子はどんな事をしても、オルガンを習はせてやりたいと思つた。――だが、又、思ひ返してみると、理想の生活は、何時も遠く正反対の空を飛んで行つてゐる。少し位は、手も唇も許す心算でなければ、女給暮らしと云ふものは、さう収入のいゝ仕事では、今ではなくなつてゐるのだ。
と、云つて、直子のやうに、母も子供も捨てられる程、若くもない年齢である。――せん子は、ゴトゴト電車に揺られてゐながら、たゞ、いつも、呆んやりと考へに耽ることは豪壮な邸宅でもなければ、また、華美な、訪問服のことでもなかつた。子供の掌に握らせてやる、少しばかりのオルガンの月謝のことばかりで、それは、詩よりも高価で手のとゞき易い許された、何と可憐な空想であつたらう。
街は硝子のやうに寒かつたが、相変らず舗道には人が溢れてゐた。枯れた銀座の柳にも何か風情があつて、春らしかつた。もう三四ヶ月もすると、あの柳にも青い芽が出る。せん子は風呂敷の中の、コマゴマした道具の音も冷たく心に感じながらも、春を待つてゐる気持ちは、街の誰よりも強くあこがれてゐるのであつた。
「せん子さんぢやないの‥‥」
「あらア、直子さん、どうしたのさア‥‥まア、元気で」
自動電話の蔭に、支那織りの黒いコートを着た直子の手をつかんでせん子は子供のやうに息をせかせか切つてゐた。
「心配かけて済みません」
「そンなことどうだつていゝけれど、一度岡田さんが来たツきりよ、それから、あンな呆んやりしたあなたの手紙、探しやうが無いぢやありませんかツ」
二人、たつた四五日の別れであつたのに、何から話していゝか、あれもこれも、云ひたいことばかりがいつぱいであつた。――だがせん子の唇をついて出ることは、「丈夫で生きてゐてよかつたわ」といふ言葉ばかり。
9 二人はせかせかした気持で松坂屋へ這入つて行つた。いまの二人には、かへつて、このやうな雑沓のなかゞ落ちつけて話の出来る場所であつたのであらう。
「私、いま盲めつぽうなのよ‥‥只母親と子供の事を考へると切なくなつてしまふけれどねえ、人間つて、どうにもならなくなつてしまふ場合つてあるぢやないの‥‥」
「何いつてンのさア、そんな、どうにもならない場合なンてものは、自分自身がつくるンですもの‥‥子供や、お母さんの事考へたらもつとどうにかなるものよ」
「えゝ――」
「えゝぢやないわよ、大丈夫? 気が弱くつちや駄目、――牧さんの方だつて、奥さんも子供さんもいらつしやるンですもの、判るでせう?」
「えゝ」
あんなに、いつぱいあれもこれも話しがありながら、かう、つきつめて来ると、二人とも、中心よりも遠い線をもどかしくぐる/″\廻つてゐるだけであつた。
「お粒さんはどうしてるウ?」
熱い茶をゴクリと呑み干すと、直子は白けきつた気持ちで、別の話にうつゝた。
「あのひとはあンなだもの‥‥このごろパトロンが出来て満洲へ行くとか云つてたわ――二人新らしい人が這入つて来たの知らないでせう。一人は素人だつたンだけど、このごろは結構、あの空気に染つて、はづかしツ気もなく大きな声で唄をうたつて酒を呑んでるわよ」
「まア、さうなの‥‥サトミさん達は?」
「さあ、今日あたり百合子さんと御同伴で広島の方へ行くつて云つてたけれど、――あの人達はあの人達でいゝわ。子供や亭主がないンですもの、その点、私なンぞより、よつぽど気楽で、せか/\しなくツていゝし」
「全くね、だけど、あのサトミさんてひと、どつか違つてる人ね、呆んやり退屈さうな風でゐて、落ちついてゐのね[#「ゐのね」はママ]、私、自分は自分で、あンな酒場の空気に汚れないひと、好きだわ」
「だつて、この頃、お粒さんだつて、操さんだつてとても気弱で、そりやアいゝ人達になつたわ、だけど、操さんの大森発展は困りもンだけど、あれはあれで仕方がないぢやないの、御亭主が市ヶ谷へ這入つてンですつて佗しい話ねえ」
二人は廊下を話しながら歩いた。琴を買つてゐるお嬢さんが、コロリンシャンと、何度も糸を弾きながら母らしい人と談笑してゐる。
直子は眼を伏せて古里の事を偶と考へてゐた。柿の実の赤々と熟した娘のころの思ひ出の中に、「黒髪」がよく弾けたこと――今かうして、何でもない行きづりの琴の音を聞くとたまらない気持ちであつた。そして、妙に音楽と云ふものが、甘く心に来ると、牧と、この儘、行くところまで行つて死んでしまつてもいゝと云つた風な気持ちになるのであつた。
「何にしても、人生つて、くたびれるところなのね」
「直子さん! あンたはまだ本当にお嬢さんだわ、私、このごろでは、人生と根くらべよ――私、子供にオルガン習はせてやりたいことが理想なンだけれども‥‥えゝ一生の仕事として、それをやつてやりたいと考へてゐるのよ、私は、生きてゐることは楽しみだともこのごろ考へだしたわ」
10[#「10」は縦中横] 雲の飛ぶよな
今宵のあなた
みれんげもない
別れよう‥‥
料理店リラの女達の中には、この唄はまだまだ唇に苔むされてゐた。
お粒は、酒にも弱くなつたのか、毎日呆んやり煙草を吸つて唄つてばかりゐた。――サトミは相変らず、底の判らない顔色でニヤニヤ笑ひながらレコードをかけてゐる。百合子は百合子で、華美な着物ばかりつくつて操達をうらやましがらせてゐた。
雪もないうららかな日が続いた夕方――静かにレコードの始つてゐるリラの扉をあけて、
「おい! とう/\やつたよツ! ホラツ」
せん子が第一番に、立ち上つた。岡田は震へる手つきで、マホガニの卓子の上に新聞紙をひろげた。
――牧法学博士一女給と心中を計る。
場所は直子の郷里京都であつたが、まだハツキリした事は書いてなかつた。
「昔こゝにゐたひとなンですの‥‥まアこはいツ」
女給らしくなつた澄子が岡田の肩から覗き込んで、牧博士の写真を見てゐる。
さくらも、操も サトミも、百合子も、ドシンと墜ちたやうな顔であつたが、それよりもひどく心に耐へたのは、せん子と粒子であつたらう。
「とう/\やツちまつたのねえ!」
粒子は何を思つたのか、ジジ‥‥と空廻りして鳴る、雲の飛ぶよな今宵のあなた[#「雲の飛ぶよな今宵のあなた」に傍点]のレコードを針を変へてはいとしにさうに[#「いとしにさうに」はママ]静かに廻し始めた。
底本:「林芙美子全集 第十五巻」文泉堂出版
1977(昭和52)年4月20日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
※片仮名の拗音、促音を小書きするか否かは、底本通りとしました。
※疑問点の修正に当たっては、「清貧の書」改造社、1933(昭和8)年5月19日発行を参照しました。
入力:林 幸雄
校正:花田泰治郎
2005年8月20日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全3ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
林 芙美子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング